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第4章 旅館の怪異

 街に少しばかりの畏怖を覚えた時、京都に夜が訪れたのだと知った。


 京丹後市から京都市に戻ってきた頃には、辺りは既に暗闇だった。石畳と瓦屋根の街並み。もの恐ろしさと懐かしさを同時に覚える。しかし、旅のエピローグにはまだ早い。それどころか、ようやく折り返し地点に差し掛かったのである。


 当初の予定よりもわずかに遅れたものの、私たちは、宿泊予定の旅館に到着した。それはニ階建ての木造建築であり、「平安旅館」と書かれた暖簾が古風で趣がある。ミツルが泊まるのだから、彼のいた平安の雰囲気により近い宿が適当だと考えて、この旅館を予約した。結果的に「旅館の名前」という安直な理由で決めたのだが、果たして気に入ってくれるだろうか。


「成田、偏見というものは実に愚かでな」


 ミツルは、建物を見上げながら話す。


「木材は雷に弱いと言われている。だが、実際は逆だ。木材自体は雷を通さない。ところが、木材よりも人間の方が雷を受けやすい性質にある。それが飛躍して、誤った常識を覚えてしまうのだよ」


 言い終えて、彼は暖簾をくぐった。発言の真意が分からないまま、私も後に続く。


 最初に飛び込んできたのは、景色ではなく木の匂いだった。親しみやすさを感じる。犬は、撫でられる前に自分の匂いを嗅がせると警戒心を解くらしいので、それと似たようなものだろう。


 玄関に入る。コト、という足音。室内で唯一土足が許される石タイルに、足を踏み入れた。天井には、和紙で作られたであろう照明器具。視界を照らし出す役割は果たしているものの、どこか侘しさを助長する薄暗さが心地良い。


 石タイルと一段だけ世界を隔てた先には、木材と畳の諧調が広がる。照明に染められた畳は、まるで頬を橙に染めているかのようだ。


 その畳の上に、下めアップの髪型の女性と、目線が泳いでいる男性の二人が正座している。どちらも二十代だろう。着物を着ている。互いに離れて座っているから、夫婦ではないだろう。


 女性は、私の姿を見るなり座礼した。洗練された滑らかさだった。


「お待ちしとりました。予約しとった成田様で、お間違いあらへんでっしゃろか」


 本物の京言葉だ。数年ほど京都で暮らしたとはいえ、これこそが京言葉だと断定できる言葉には出会っていなかった。興奮しながら、はい、と返す。


「長旅はばかりさんどした。どうぞ、くつろいでいってくれやす」


 くれやす、の「す」の部分が強調されていて、なんともよい。もしかして、私は京言葉を求めて京都に来たのではないだろうか。いや、違う。私が京都に来たのは文学を研究するためだ。


「ほら、山岸。しゃしゃっと動き」


 女性が、山岸と呼ばれる男性を急かした。どうも、女性の方が立場が高いらしい。


「すいません。えっと、成田様。自分についてきてください」


「ちゃうやろ、京都の言葉を使いなさい」


「失礼しました。お部屋にご案内するどす。ついてきておくれやす」


 しどろもどろな従業員である。ただ、それを気にするほど私たちは器の小さい客でもない。靴を脱ぎ、肩に力が入っている従業員についていく。


 木の香が漂う廊下。快然たる心地だ。上機嫌な私を見てか、ええ雰囲気やろう、と女性の方が話しかけてきた。


「申し遅れました。うちは五十嵐と申します。あちらは山岸どす」


 相手に自己紹介をされると、私は反射的に名乗ってしまう性分である。成田です、と私も返した。しかし、私は既に、電話で予約した際に名を明かしている。案の定、くすりと笑われてしまった。


「存じ上げてます。そこまで強調するちゅうことは、なんかの伏線どすか?」


 即座に否定する。私の名前が何かを暗示することなどない。私の言葉を聞くと、五十嵐さんは柔和な笑顔を浮かべて、えくぼを強調させた。


「なにか気になることがあったら、なんなりとおっしゃってくれやす。些細なことでも構しまへんよ」


 そこで、この平安旅館のことを聞いた。ホームページを見れば書いてあるのだろうが、私はネットが大の苦手だ。事実、私はネットで電話番号を調べて予約したのだが、そこまで辿り着くのに数十分を費やさなければならなかった。平安旅館のことは、名前と部屋の値段くらいしか知らない。


「平安旅館は、今から百年ほど前に建てられた、伝統のある旅館どす。うちで四代目なんどすえ。名物は温泉で、平安旅館の中でもとりわけ素晴らしいとお客はんは言います」


 旅館のことを話す五十嵐さんは、なんだか自慢話をする時みたいに愉快だ。いや、悪いことではない。人がご機嫌だと、私も嬉しくなる。


 ところで、うちで四代目、と彼女は言った。女将なのだろう。若くして責任のある職業に就くのだから、旅館のことが好きでなければ、今日まで旅館は続いていないだろうと感じる。


「うちの母が三代目やったんどすけど、もう旅館は廃業しよう思てる、と言うとりまして」


 五十嵐さんが話を続けた。聞きながら、自分が階段を上っていることに気付く。部屋は二階にあるようだ。


 そういえば、旅館に入ってから、一度も平安時代の言葉で話していない。ミツルは退屈しているだろうと思ったが、意外にも、建物の雰囲気や装飾に興味があるようだ。をかし、と呟いてさえいた。安心したので、もう一度五十嵐さんの話に耳を傾ける。


「うち、旅館廃業やなんて、ようない思たんどす。だって、百年以上の歴史があるんどすえ。その歴史を手放すなんて、もったいないちゃいますか」


 確かにもったいない。昔の国文学を研究する私だから、激しく同意できる。


「歴史は誰かが語り継がなあかん。伝統は誰かが受け継がなあかん。京言葉かて、使わな廃れてまう。そやさかい、うちみたいな、方言がどきつい若い女将が誕生したわけどす」


 いつか見た新聞に「若者は流行に乗りたがる」という記事が載ってあったことを思い出した。何かを知った気になって、新しいことを探すのは、きっと人間の性質なのだろう。決して悪いことではない。


 だからこそ私は、天邪気ではないが、知った気になっている事実を更に追い求める、文学や歴史という学問に惹かれたのだ。彼女もきっとそうであろう。


「成田様。うちは下品な小娘どすけど、どうぞよろしゅうおたのもうします」


 こちらこそ。そう返した途端に、山岸さんが立ち止まった。


「『紫の間』、着きました」


 彼が襖を開ける。次の瞬間、もんわりとした熱が私を襲った。まるで厚着のままサウナに入ったかのようである。この部屋で宿泊するのは、人間の体では、とてもじゃないが無理だ。


「すみません。すみません」


 すると、山岸さんが標準語で謝り始めた。何か不都合があったのだろう。五十嵐さんが解説する。


「『紫の間』は、温泉の熱気が溜まりやすい場所にあるんどす。そやさかい、夜に一度冷房をつけなあかんのどすけど、それを怠ってました。すまへんけど、少々待っておくれやす」


 彼女は山岸さんの背中を強く叩き、それから二人で来た道を引き返す。旅館の雰囲気もあって、割とかっちりとした接客を予想していた。ただ、これはこれで親近感があっていいのかもしれない。それこそ、玄関で嗅いだ木材の香りのような。


 ミツルは、何が起きたか分からないまま暑がっている。そこで、五十嵐さんが喋っていたことを伝えた。


「五十嵐は、熱気が溜まったから冷やす、とな。失敗こそ成功の母であるよ。どれ、あの新人たる男の成長を、それこそ母の気持ちで見守ろう」


 ミツルは上手いことを言うものだ、と思った。ただ、実際自分が山岸さんの立場になると、同じように緊張してしまうだろう。そう考えてみると、五十嵐さんの振る舞いは、堂々とした立派なものだ。


 ほどなくして二人が戻ってくる。それっきり、部屋から熱風が吹いてくることはなくなった。


「改めて、こちらが『紫の間』どす」


 十畳ほどの空間には、玄関にも存在した和紙の照明器具。食事用の黒いテーブルが中央にあり、それを囲うように二つの座布団が置かれていた。折り畳まれた布団は、掛け軸と共に部屋の隅に位置する。その掛け軸の絵は、恐らく『源氏物語』のものであろう。


「この『紫の間』っちゅう名前は、源氏物語の作者である紫式部から取ってます」


 五十嵐さんが、その掛け軸を見ながら言う。


「また、紫式部ちゅう名前は、源氏物語に登場する紫の上から引用されたものなんどす」


 実のところ、私はそのことを知っていた。だから、紫の上が紫式部という名前の由来だったということよりも、それを旅館の従業員たる彼女が知っていたことの方が衝撃的だった。


「よくご存知ですね。平安を名乗る旅館なだけあって、平安文学の知識も目を見張るものですよ」


「前のお客様がたいそう詳しゅういらっしゃって、教えてもろうたんどす」


 部屋の障子を開けると、一面の緑が視界を覆う。窓がないため、枝が少しばかり部屋に入っている。だが、それでいい。これこそ和の建築である。


 日本の建造物は、自然と相反するものではなく、調和しながら進化してきた。日本家屋の縁側が顕著な例だろう。この平安旅館は、それを熟知している。百年もの伝統を重ねてきただけある。素晴らしい、と私は呟いた。


 少しして、はっ、と思い出したかのように、五十嵐さんが言った。


「こんな時間どすさかい、すぐにご飯を用意します。お客様は、遠慮せずくつろいでおくれやす」


 彼女が部屋を出た。しかし山岸さんは続かない。彼も、私に声をかけようとしていたのだろうが、言葉が出ないのか、口を開けたままの状態になっている。結局、何か話すよりも早く、女将に肩を掴まれて退出していった。


「緊張しているのだろうな。いやはや、なんとも初心であるよ」


 かっかっか、とミツルは笑う。決して山岸さんを嘲るものではなく、もっと気楽にすればいいのに、という意味合いだろう。私には分かっていた。友人だから。いや、友人なのだろうか。


 私が紫の間を予約した理由は、決して源氏物語の熱心な信者だからではなく、最も料金が安い部屋だからであった。更に、ただでさえ安いというのに、どうしてか、料金が二割引きになっていたのである。とはいえ、元々が格調高い旅館なのだから、二割引かれようが財布は貧しくなった。それでも奮発したのだ、私なりに。


 くつろいでくれ、と言われたものの、やはり落ち着かない。部屋を探索する。私が一向に休まないのだから、ミツルもそれに加わった。まるで宝探しだ。少年時代を思い出す。


「見ろ、成田。これは家系図ではないか」


 ミツルの言う家系図とは、掛け軸の横に貼ってある、なにやら品格のありそうな紙のことだろうか。近寄って、調べてみる。


「これは『源氏物語』の登場人物の家系図みたいですね」


 光源氏を中心として、黒い線が、トーナメント表のように伸びている。名前の下には、登場人物の詳細までも書かれていた。しかも綿密だ。


「成田、どうして光源氏の線は、色々な女に繋がっているのだ」


「光源氏は、様々な女性とお付き合いしていたんです」


「確かに私の時代にも、多数の女性と関係を持った人物はいた。しかし、この男、あまりに慕われすぎであるよ」


 あくまで創作物ですからね、と返した。それにしても、丁寧に書かれた家系図である。どこかの熱心な国文学者の論文から引用したのだろうか。それなら、出典元を記すべきだが、そのような記述は一切ない。


「お待たせしました。本日の食事どす」


 五十嵐さんが入ってきた。後ろには山岸さんが続く。二人はお盆を持っている。その上には、刺身や茶碗蒸し、それに天ぷらなど、豪華という豪華を詰め合わせたごちそうの数々が乗っていた。重そうだから、ついつい私がお盆を取りに行ってしまう。お気遣いおおきに、と言われて、やはり京言葉は素晴らしいと感じた。


 そこに、ミツルがやってきて、二人に問う。


「この家系図を書いたのは、誰であるか」


 平安時代の言葉。当然伝わらないはずだ。五十嵐さんは、聞き取れなかったのだと勘違いして、もういっぺんおっしゃってくれやす、と言うものの、その現代語を彼が聞き取ることも叶わなかった。


「言いそびれたのですが、彼は平安時代の言葉しか話せず、聞こえないのです」


 多分信じないとは思うものの、そう伝えてみた。そもそも、平安と令和で意思疎通が図れた今までがおかしかったのだ。歴史に精通した松平も、古典講師の森本先生も、そして私も、どこかしら狂っているから、平安時代の言葉を覚えようだなんて考えるのだろう。


 それに、平安時代の言葉しか話せない罰ゲームなのだ、と誤解する可能性もある。とはいえ、彼は時間旅行者であると、突拍子もないことを告白するよりはましだ。まだアルコールは入っていないのだから、客観的に考えて、頭のネジが外れたことを打ち明けるのはよそう。


 ただ、予想に反して、五十嵐さんはミツルに興味を持ったらしい。お盆を置いてから、彼に前のめりになる。しかし、言語の壁は大きい。そこで私が通訳となって、二人の会話を媒介した。山岸さんを放置するのは申し訳ないものの、好奇心に駆られた人間を無視するのは、不老不死の薬を開発することくらいに難しい。


「それで、さっきはなんとおっしゃったんどすか」


「あの家系図を書いた人物を探していたのだよ」


 耳から京言葉、口から平安語。それこそ酒でも飲まないと、頭がおかしくなりそうだ。五十嵐さんが、酒飲みの相手は疲れるものどすな、と皮肉を言わないことだけが、私にとって救いだった。


 千年以上の壁を乗り越えて、平安と令和が飛び交う混沌。しかし、混沌とは、更なる混沌によって打破されるらしい。


「その家系図、自分が書きました」


 声の主は、山岸さん。


 彼は、平安時代の言葉で、そう言ってのけた。


「本当か。名を知りたい」


「山岸です。よろしくお願いします」


 突然のカミングアウトだった。どうして平安時代の言葉が話せる人間が、こうも沢山いるのだろうか。山岸さんの平安時代の言葉は、どこか癖のようなつっかかりを覚えるものの、ミツルと喋れることに変わりはない。


「いやあ、自分、家系図が好きなのです。風流があるでしょう。今まで先祖が受け継いできた命のバトンは、どうしてこうも美しいのか、と」


 接客中よりも、ミツルと平安時代の言葉で話す方が饒舌である。意味が分からない。困惑しすぎたせいか、苦笑いしてしまった。


「山岸、京言葉より平安語の方が達者なのはなんでやろう。いつもはあまり喋らへんのに。山岸まで酔うてもうたのでっしゃろか。ようないものを食べた思われては、旅館の食事に悪い印象が生じてまうなあ」


 五十嵐さんも笑うしかないみたいだ。山岸まで、という言い方からして、やはりミツルは泥酔者だと勘違いされていたらしい。ミツルと山岸さんは楽しそうにしている。私は、五十嵐さんが二人を酔っ払いだと勘違いしているため、それを解く役回りを務めることにした。


 ふと、二人は業務中であることを思い出す。他の宿泊客もいるのだから、私たちに時間を割いてもらうのは申し訳ない。もう仕事に戻ってもらっても構わない。そう二人に告げたのだが、宿泊客は私たちだけであるという。思えば、女将が案内や配膳までつきっきりで行うのは、本来なら贅沢であろう。


「おもろいお客様や思てます」


 そう彼女が笑うものの、ここは京都であるから、どうしても裏の意味を考えざるを得ないのである。


 私とミツルは、料理をいただきながら、従業員の二人と話していた。食事中に口を開くのはよくない、という平安時代の風潮はあったから、彼が会話に参加するのは、皿の中身が空になってからだった。しかも突き指をしていたのだから、普段の食事よりもスローペースだ。とはいえ、礼儀正しさは忘れない。ミツルとは、そういう人間らしい。


 旅館には「仲居」という客の世話をする職業があるが、まさか女将が直々に客と話すのは想定外でもあり、それでいて親しみやすさがあるものだ。普通、食事中に対話を持ちかけられると、どこか嫌気がさすものである。それがないのは、京言葉を直に聞けるという喜びと、ミツルと同じ言語を扱える山岸さんがいるからだろう。なぜ話せるかは知らないが。


 話を聞くに、その山岸さんは、大学時代に家系図サークルなるものに所属していたらしい。世にも珍しい集まりである。私のその考えは正しかったようで、関東のK大学のみに存在するサークルだという。ずっと関東で育ってきたから、大学も関東にしたところ、あれやこれやで家系図に惹かれてしまったそうだ。元々歴史に強い大学だからか、歴史好きが集まっていて、より見聞が深められた。そう彼は語った。


「ところで、なんで成田様は『紫の間』を予約しよう思たんどすか。いわくつきなのに、物好きなお客様や思て、気になっとったんどす」


 五十嵐さんから訊かれる。特にかっこつけたいとも思わなかったので、正直に値段が安かったからだと答えた。ところで、いわくつき、とは何のことだろうか。


 すると、彼女は急に神妙な表情になり、こんなことを言った。


「なんで安いか、気にならしまへんか。もしもお望みなら、夜も眠れへんような怪談話をいたしまひょ」


 怪談話。いつもの私なら震え上がった単語だろう。いや、今もそうだ。ただ、その怪談話というのは、もしかしたら、今日私とミツルが探し求めていた「それ」ではないのだろうか。興奮と恐怖を同時に覚える、逆説的な心象。


「いいでしょう。お願いいたします」


 彼女は怪談を語ろうと口を開けたが、おもむろに閉じた。それから山岸さんに、平安の言葉で話してほしおす、と頼んだ後に、自分も聴衆の一人になった。きっとミツルに配慮したのだろう。気配りのできる人だ。


 山岸さんは、全員の視線が集まって緊張していたのだろう。一度息を飲む。ごくりと音がしたら、話が始まる。


「これは、一週間前のことです。自分、旅館に住み込みで働いていまして。それで、深夜四時くらいでしょうか。お客様が誰もいなかったので、部屋の点検をしようと思い、紫の間に入りました」


 ふむ、とミツルが相槌を打つ。


「すると、あの掛け軸の裏側に、『雷』と書かれていたのです。その文字は、何度も線をなぞったかのように濃く、そして大きく。いわば、明朝体で書かれたレタリング文字のようでした」


 悪戯書きではないのか、と私は思う。ただ、言葉選びのチョイスというか、どうして雷という言葉を選んだかを考えると、少し怖いのだろうか。


 ただ、話はこれで終わらない。


「自分も最初は思いました。これは悪戯だろうって。それと同時に、ここは伝統ある旅館ですから、落書きをされたことに強く憤りを感じました。すぐに消したかったのですが、ちょうど汚れを消す道具を切らしていて。ただ、その道具を取り扱う店は、昼から営業します。これでは、まだ文字を消すことはできません。仕方がないので、それが買えるまでは放置しました」


 山岸さんは、落書きをすぐさま五十嵐さんに報告したそうだ。彼女も、確かに「雷」の文字を見たと話す。


「昼になって、汚れを消す道具を買い、紫の間に戻ったんです。不快な落書きだけど、消してしまえばこっちのものだ、と思いながら。そうしたら……」


 彼が、何を言いたいのか分かった。


「雷の文字が、どこにもなかった。でも、その夜に、また現れた」


 ないものがあった、という怪談は何度も聞かされたが、あったものがなくなって、またあった、というのは初めてだ。背筋が凍る思いだが、実際には凍らない。なぜなら、紫の間は熱気で温まっているから。


「でも、朝になったら消えます。次の日の夜には、また現れます。その雷の文字が」


 夜に出現し、朝に消失する。まるで、文字が意思を持って行動しているかのようだ。


「信じられないことですが、これは幽霊からのメッセージなんじゃないかと思い込んでしまって。だから、紫の間はいわくつきとして、値段を下げたのです。すみません。成田様が予約される前に、申し上げておくべきでした」


 言い終えて、頭を下げる山岸さん。一方、女将は少し嬉しそうである。


「この旅館は、いっぺん廃業の危機に陥った旅館どす。そやさかい、それが幽霊であったかて、お客様が来てくれることに喜びすらあるんどす。不思議やろう、職業病かもしれへん」


 いわくつき、とはいえど、幽霊をも招く旅館だと銘打てば、ある程度の知名度は獲得できるかもしれない。少なくとも、オカルトマニアからは。


 ただ、五十嵐さんは、お金ではなくおもてなしにやりがいを覚えているようで、話から生々しさは感じなかった。いや、むしろ客にお金の話をする女将がいたら、それはどうかと思う。


「ただ、成田様が希望するんやったら、もちろん紫の間から別の部屋に変えられます。なんたって、成田様も大事なお客様どすさかい」


 紫の間で食事までしたのだ。今更部屋を変えようという提案は、遅すぎるのではないか。部屋を変える気はないが、その点だけは納得がいかなかった。ただ、彼女も忙しいのだろう。おもてなしをする女将に、クレームを入れるような人でなしにはなりたくない。


 それよりも、だ。私の隣で、うずうずしている男がいる。


「成田。つまり山岸は、これが怪異だと主張したいのか」


 一日中待ちわびただろう。怪異の発生。しかも、私たちが泊まる、この部屋で。


「そうですよ。山岸さんは、その現象を怪異だと思っています」


 なるほど、と彼がゆっくりと立ち上がる。堂々とした振る舞いだ。まさか、この現象が、怪異か怪異ではないか、とうに分かっていたと主張したいのだろうか。私は身構えた。それを見てか、山岸さんは、ごくりと唾を飲み込んだ。平安時代の言葉が分からない五十嵐さんだけが、私たちの食べ終えたご飯を片付けている。


 ふう。大きく息を吸って、それから、彼は言った。


「風呂にしよう」




 旅館の女将が満足度を自薦するだけあって、露天風呂は、なんともいい湯加減である。広がる景色は、夜ということもあって薄気味悪いものの、温泉という安全地帯に浸かっていれば、その気味悪さすら鑑賞物になる。檻越しのライオンを見るのと同じだ。


「成田、この風呂ぬるいぞ」


「そうですかねえ、丁度いいと思ったのですが」


 文字通り、ミツルとは裸の付き合いである。とはいっても、私は彼に対する色々な感情を封じ込めてはいるのだが。彼がどうかは分からない。もしかしたら、単純に私を利用しているだけかもしれない。いや、よそう。後ろ向きなことは考えるな。私は、彼と時間を過ごすのが好きなのだ。そうに決まっている。


「夜に消えて、朝に現れる文字、とな。何も考えずに生霊の類と主張したいが、私の目的はそうではない。本物の怪異を見つけて、止めなければならぬ」


 彼が必死に考えているから、私は黙りこくって、暗闇の向こうを見つめている。段々と、彼との間に生まれる沈黙に、気まずさを感じなくなってきた。ただ、今日の朝も感じた、泥のように心にへばりつく感情を対処できずにいる。


「そういえば、成田」


 急に呼びかけられたので、驚いた。心臓が抗議している。


「『雷』という文字、どのようなものだったのだろうな。夜更かしして確認してもよいぞ」


 確認しましょう、と言いたかったものの、最近、私は夜更かしができなくなってしまったらしい。思うに、三十歳以降は老人ではないだろうか。むしろ、私より老けたミツルが徹夜を提案したのには驚いた。


 少し間を置いて、山岸さんが喋っていた雷の文字の特徴を回想し、ミツルに話す。


「レタリングのような文字、と仰っていましたね」


「ああ、そうそう。そのレタリング文字とやらが分からんのだ。山岸に訊こうと思っていたが、忘れていたよ」


 そういえば、ミツルにレタリングを教える機会がなかった。私が美術講師ならば存分にあっただろうが、生憎、専門は国語である。


「袋文字という、輪郭の線だけが存在する文字があります」


「輪郭だけ、とな。そのような文字を想像すればいいのか」


 また沈黙が生まれる。沈黙は嫌いではない。いや、嫌いじゃないと思いたいのかもしれない。無理して間を繋がなくても、横にいるだけで快適、みたいな。私はきっと、ミツルとそういった関係になることが、憧れなのかもしれない。


 なんだか、腹の中がぐるぐると蠢く心地だ。のぼせてきたのかもしれない。腕を見ると、ほどほどに赤い。まるで酒を飲んだ後の顔のようである。


 隣を見る。ミツルは赤くない。ずっと頭を働かせているから、体すら熱さに気付けていないのかもしれない。それとも、平安時代の人類とは、熱に強い人種だったのかもしれない。


 どうも正常に頭が回らない。私を押さえつけていた理性も、どろどろに溶けていく。


 私は勢いだけで物事を言う人間だ。いつも後悔していた。発言を取り消したいと、撤回したいと、何度思っただろうか。


 私は後ろ向きな人間だ。一度嫌な出来事に遭遇したら、それが何度も何度も、脳内の劇場で繰り返し公演されていた。私は強引にシートベルトを閉められて、映像の途中には、瞬きすら許されなかった。


 それでも、どうしてだろうか。人を傷付けることがこんなにも怖いと分かっているのに。


 私は今から、友人に対して、胸の内を明かそうとしている。ありのままの感情を、全てぶつけるつもりでいる。


 多大なる友情と、少しの嫉妬が、私の小さな背中を押した。


「ミツル」


 唐突に、友人の名を呼ぶ。返事はない。


「私、きっと、あなたに嫌われたくないんだと思います。あなたの友人になりたいから」


 そこまで言って、ようやく彼は、私を見た。意表を突かれた表情であった。


「でも、今から私は、酷いことを言います」


 それから、彼の表情の変化を見ることは叶わなかった。私が下を向いたからだ。水面には、情けない顔だけが映し出される。臆病な私だから、目線を合わせるなど、鏡越しだってできない。


「私は、ミツルのことが分からない。理解できない。どうして心を守るため以外の目的で皮肉を言えるのか。どうしてお互いに謝ったら、何の未練も残さずに仲直りできるのか。どうして嫌なことを思い出さずに済むのか。どうして前向きでいられるのか。そして……」


 頬に何かが、すう、と流れた。


 自分が情けなくなったのだ。私は今、右も左も分からない平安時代からの観光客に、自分自身の感情を吐露している。何かも吐き出して、自分だけすっきりしようとしている。そんなの、友人のやることではない。これ以上、後悔のフィルムを増やすわけにはいかない。


 なんでもないです、と言って、風呂から上がろうとした。


「待て」


 私の手が、掴まれた。私は振り向いて、自分の手を見る。掴まれていた。


 ミツルが伸ばしたのは、左手だった。


「離してください。左手の人差し指は、怪我をしているのでしょう」


「離すものか。離してたまるものか」


 ちらと見た彼の表情は、あの時、よせ、と言った時の二倍は痛々しい。突き指した人差し指が、伸びてしまっているのだ。さぞ痛いに違いない。そのような顔を見ては、もう逃げられない。卑怯だ、あなたは。


 逃避をやめて、また彼の隣に戻る。顔も、下に向けようとする。


「成田。私を見ろ。目を合わせよう」


 おずおずと、彼を見た。無理な笑顔と、隠しきれない苦悶。私が傷付けた、友人の顔がそこにある。数年前に残したもう一つの悔恨が、今となって私の足を縛る。


「そして、の後を言え。後悔はいつだってできる」


 後悔はいつだってできる。彼の言葉が残響した。今だけは、この瞬間だけは、その甘言を受け入れよう。


 もう、何もかもが、なくなってしまうのだろうと思った。


「私は」


 なくなってしまうならば、全部ぶちまけてやろうと思った。


「どうして、あなたが私を友人と呼んでくれたのか。それが、どうしてか、なぜか、私には理解できなくなってしまったんだ」


 二人、靉靆、夜の帳。


 とめどなく、溢れた涙が頬伝う。私は、彼と目を合わせなければいけない。それなのに、霧がかかったようにぼやけて、見えない。どうか見せてほしい。今だけは、逃げてはいけない。どうか、指を痛めてまで言葉を聞いてくれた友人を、私の前から消さないでくれ。


「案ずるな」


 彼が、そこにいる。それだけが分かる。


「理解なんてできなくていい。それよりお前は、私が令和に飛んだあの日、私を理解してくれようとしてくれた。一人ぼっちから救ってくれた。だから、友人と呼ぶのだよ」


 結局、あなたを理解できなかったというのに。それでも友人と呼んでくれるのか。どう言葉を返せばいいか分からない。私はむせ返すばかりだったから。


「ただ、どうして前向きでいられるか、については訂正させてもらう」


 顔を手で拭って、ようやく彼の顔を確認できた。少しだけ苦悶の抜けた表情。


「私は前向きではない。ただ、令和に送り出してくれた友人や仲間の願いを託されてきた。だから、くよくよする暇もない。それだけだ」


 そう語った後、彼はざばんと音を立てて、水をかけてきた。また視界がおぼつかなくなる。


「私にできることがあったら、なんでも言え」


 視界も嗅覚も味覚も触覚も、のぼせたり泣いたりでおかしくなっていた。だから、最後に残った聴覚だけは、はっきりと、彼の言葉を伝達してくれた。


 憂い事は、あの怪異のように消えた。夜は失せて、朝が来たのである。今度こそ、調子に乗っていいだろうか。心に問いかけると、いいよ、と誰かが告げた。


「ミツル。あなたが怪異を止めたら、ある人に会いたいのです」


「人に会う、とな。私にできるのか」


 私は頷いた。濡れた前髪が飛沫を散らして、温泉がぽたぽたと足踏みするようになる。


「できますよ」


 じゃあ約束だな、と彼は顔を綻ばせた。友人との約束。指切りげんまん、なんて平安時代にはないから、私たちなりの方法で、それを忘れないようにしよう。


「カレンダーの予定に書いておきますね」


 なぜか返事がない。聞こえなかったのかと思い、もう一度カレンダーと言った。しかし同じだ。見ると、彼は石のように固まっている。まさか立ったまま気絶したわけではないだろう。だが、そうでなければ、彼に何が起こったというのだろうか。


 私が声をかけようか逡巡していると、途端にミツルは呟いた。


「心得た」


 そのまま彼は風呂から上がり、小走りした。床が滑るから危ないですよ、と私が注意するも、彼は聞く耳をもたない。何度も滑りながら脱衣所に駆け込んでいく。


 落ち着きのない人だ、とつくづく思う。私も後に続こうとしたものの、のぼせたせいか、視界が大きく揺れた。一旦お湯から体を出し、屈みながら体調が回復するのを待つ。数分ほど経って、どうにか立ち上がれるようになった。


 脱衣所には誰もいない。ミツルはとうに出ていったのだろう。浴衣に着替えるのに苦労しなかっただろうか。いや、浴衣は平安時代には既にあった。それなら、彼が全裸で旅館を闊歩するという最悪の事態は免れたはずである。


 私も着替えよう。服を保管していたカゴに手を伸ばそうとして、ふと、脱衣所の隅の、洗面所の下に何かが落ちているのを発見した。暗くてよく見えない。落とし物だろうか。近付いて手に取ると、それは紫色の扇子だった。


 その扇子を見た途端、私は、数日前に生徒から聞いた言葉を思い出した。


「最近、お気に入りの扇子を失くしたようで、腹の虫の居所が悪いようです。あれです。あの紫の扇子」


 回想される発言。この扇子は、森本先生が落としたものなのかもしれない。しかし、脱衣所は従業員が清掃するはずである。いくら暗くてよく見えない場所に落ちているとはいえ、扇子を見落とすことがあろうか。


 ただ、男性の脱衣所を掃除する従業員、となると、私の頭には山岸さんが思い浮かんだ。決して蔑むわけではないのだが、彼は少々抜けているところがある。きっと見逃していたのだろう。


 私は青い浴衣に身を包み、紫の扇子を持つ。ドライヤーで髪を適当に乾かした後に、紫の間へと向かった。


 部屋に入ると、案の定、ミツルと従業員の二人が待ち構えている。


「待っていたぞ、成田。種明かしをしようじゃないか」


 まるで彼はマジシャンで、今から手品の裏側を公開しよう、と言いたげな口調である。せっかく五十嵐さんたちがいるのだから、落とし物の扇子を届けようと思ったのだが、これ以上ミツルのペースを乱したくはない。全てが解決した後でも大丈夫だろう。


 まず、と彼は、山岸さんに告げる。


「生憎だが、これは怪異ではない。落書きだ」


 山岸さんの、困惑と安堵の入り混じった顔。落書きですか、と呟く彼。それを聞いて、五十嵐さんもそれとなく察したのだろう。幽霊とちがうのどすな、と落胆するような表情を浮かべる。


「うちのえらい好きな旅館やさかい、落書きとちがう思いたかったのに。まあ、幽霊なんてあらしまへんよね」


 確かに、自分の好きな旅館に、落書きをされたとは思いたくないだろう。それならば、突拍子がなくたって、怪異でも幽霊でも信じたい気持ちは分かる。


 ミツルが、なぜ五十嵐さんが落胆しているのか問うてきた。私は、彼女の言葉をそっくりそのまま伝える。すると、彼は生真面目な顔で返した。


「これは確かに落書きだ。しかし、ただの落書きではない。消した方がいいのには変わりないが」


 どういうことだ。私が訊くも、ミツルはそのまま掛け軸の方へ向かい、そして掛け軸をめくる。今は夜だが、まだ「雷」の文字は浮き出ていないようだ。彼の振る舞いを見るに、このまま文字が現れるまで待とう、とは言い出さないだろう。何かに気付いているはずだ。


「山岸、たとえば氷のような、冷えるものを持ってきてほしい」


 冷えるもの。山岸さんはそう復唱してから、急ぎ足で部屋から去った。ミツルは何を考えているのだろうか。


「成田、これは因果関係の問題だ」


 掛け軸をめくったまま、彼は続ける。


「夜に現れて、朝に消える。一見、文字が時間という概念を理解しているかのように思える。ただ、考えてみろ。もしも文字が変幻自在な怪異だとしたら、なぜ掛け軸の裏という位置を選ぶのだろうか」


 言われてみれば、そうかもしれない。掛け軸の裏を見ようと思う客はごく僅かだろう。それこそ、部屋を点検する従業員でなければ確認できない。ただ、五十嵐さんや山岸さんが誰かの恨みを買うような人物とも思えない。


「私が文字なら、もっと目立つ場所に現れたい。だって怪異なのだぞ。人を驚愕させたり、恐れおののく表情を見たいだろう。それなら、まるで隠れるかのように、掛け軸の裏に現れたりしない。それに、どうせ文字になるならば『呪』の方が、人が戦慄するだろう。だが、文字は『雷』だ」


 だから怪異ではない、と彼は主張する。私は臆病であるから、怪異となって人を驚かせたいという発想はなかったものの、おおむね同意できる。


「ならば、何の因果か。何が理由か。夜と朝で変わるもの。それは、部屋の温度だ」


 五十嵐さんを見つめながら、彼は断言した。しかし、彼女はミツルの言葉が分からない。一人だけずっと置いて行かれた心地だっただろう。ただ、重要な事実が明らかになったことは理解できたらしい。何言うてるか翻訳してほしおす、と私に要求するほどには、彼の話が気になったようである。


「ただ、太陽が出るか月が出るかでは大した相違にならぬ。しかし、『紫の間』は熱気が溜まるのだから、夜に冷房とやらをつけると聞いた。冷房は、暑い時につける。ということは、冷房は部屋を寒くするものなのだろう」


 しかし、部屋が暑いか寒いかで、どうして文字が現れたり消えたりするのだろうか。その因果関係が分からない。


 ふと思い出す。温泉に入っている時に、彼はカレンダーという言葉に反応した。カレンダーは、確かに掛け軸のようにめくれる。ただ、カレンダーと掛け軸という要素が何に結び付くのか。その論理だけがどうしても理解できない。


 いっそ奇天烈な発想をしよう。カレンダーには何の意味もなく、そのカレンダーから連想されるものが、この文字の正体だったりするのだろうか。


「あっ」


 思わず、声が漏れた。


「成田、お前ならとうに分かっているだろう」


 襖が開いて、山岸さんが現れた。大量の氷が入ったタライを抱えている。


「山岸。その『雷』の字があった場所に、氷を押しつけてほしい」


 ミツルに従い、壁に氷を押しつける山岸さん。困惑する五十嵐さんに状況を説明し、ミツルの見解が正しいことを願った。


 ほどなくして、確かに、「雷」の字が出現した。輪郭だけが存在する、袋文字。その線は、何重にもなぞられている。


 現れて消える文字の正体。ミツルはおもむろに言った。


「熱を当てると消えて、冷やすと出てくる。これは、ボールペンの字であるよ」


 初めてミツルを古典塾に連れて行った日、私はカレンダーに、熱で消えるボールペンを使って予定を書いていた。彼が温泉にて、カレンダーと聞いて固まったのは、それを思い出していたからだろうか。


 しかし、怪異だと思っていたものが、特殊なインクを使ったボールペンの仕業だと分かると、途端に興ざめするものだ。何しろ、従業員二人と客二人が巻き込まれたのだ。私は推理小説を読むわけではないのだが、拍子抜けしてしまう。


 とはいえ、事件は解決したのだ。怪異の正体はボールペンだった、と私は置いてきぼりだった五十嵐さんに教えた。


「ボールペン、悪質やなあ。そやけど、なんか楽しかったどす。まるで謎解きをしてるみたいやった」


 大切な旅館に落書きをされて、かつ壁に氷を当てられたにもかかわらず、若き女将は最後まで愛想を尽かすことなく笑った。立派なものである。もしくは、皮肉か。いや、考えるのはよそう。


「そういえば、山岸。家系図サークルとやらに所属していたのよな」


「はい、そうです。ああ、そうだ。せっかく来て下さったのだから、あなたの家系図を作りましょうか」


「かっかっか。大変だぞ。私の家系図となると、千年分は必要になるだろうな」


 さて、今度こそ憂い事は去ったのだ。明日も早い。眠ることにしよう。


「ああ、そういうたら、成田様。その手に持ってる扇子、えらいセンスがよろしおすな」


 そうだ。扇子を届けるのだった。すっかり失念していた。五十嵐さんの駄洒落は無視して、脱衣所に落ちていた、と話す。


「脱衣所どすか。男性従業員に清掃を任せてるんどすけど、さっぱり気付けへんかった。おおきに」


 おおきに、が出た。愉悦以外の何も覚えなかった。つくづく私は京言葉に弱いと感じる。


 この扇子をそのまま旅館に預けてもいいのだが、ふと、これは森本先生の扇子ではないか、ということを思い出した。そこで、ここ数日間、森本という五十代くらいの男が泊まらなかったか訊いてみる。


「森本様。いや、来てへんなあ。あ、そやけど、男性やったら一名いらっしゃったで」


 旅館なのだから、別に男性が訪れていてもおかしくはない。それでも覚えているということは、よほど印象に残っているか、客が少ないかのどちらかである。後者だとは考えたくはないが。


「お客様を疑うんは申し訳あらへんけど、あの人が紫の間に泊まってから、『雷』の字を見つけたんどす。そやさかい、あの人が犯人や思てます。少し怪しい人やったさかい、印象に残ってるんどす。黒い帽子と黒いマスク、サングラスをつけた、全員黒ずくめの男性やった」


 山岸も見たやろう、と彼女が声をかける。ただ、山岸さんは首を振った。


「ああ、その日は用事があって非番やったね」


 それから、私は扇子を五十嵐さんに預けた。森本先生は、私より平安時代の授業が上手なほど、古典に精通した人間だ。その森本先生が、伝統ある旅館に、しかも源氏物語が描かれた掛け軸の裏側に、そのような落書きはしない。別の人物だ。


「ほな、失礼しました。おやすみなさい」


 二人が部屋を出る。しかし、すぐに山岸さんが戻ってきた。タライを持ち帰るのを忘れたらしい。足早に去る彼を見届けて、私とミツルだけが残った。


 せっかくミツルとのわだかまりを温泉に溶かしたというのに、今度は森本先生への不信感が募ることになってしまう。いや、夜に惑わされているだけだ。狐の怨霊にでも憑りつかれてしまっただろうか。


 夜は暗い。何も考えずに眠ろう。




 二日目の朝は、やはり快晴であった。


 浴衣から洋服に着替えて、旅館から漂う親しみやすさから、どうにか逃げ出そうとした。このままでは、心地よすぎて長居してしまう。そうなれば、私の財布から偉人が何人か飛ぶだろう。


 今度こそ、もやし生活待ったなし。ストレス過多で、金縛り予備軍になってしまう。


 結局、あの「雷」の文字は、私たちが旅館を出てから消すと言っていた。ボールペンを使った落書きでしかなかったのだから、当然といえば当然だろう。早く汚れを消してもらうためにも、早めに旅館を出ることにした。


「南の方に行くんどすなあ。気をつけて、おはようおかえりやす」


 九時を迎える前。五十嵐さんと山岸さんに見送られて、私たちは旅に戻った。京都市から南は、一日目よりも移動距離こそ少ないものの、同程度の市町村を周る必要がある。明日は古典塾を開講しなければならないから、あまり寄り道をする余裕はない。私の事情でミツルを急かすのは不甲斐ないものである。


 ただ、ミツルは愉快であった。なんでも、素晴らしい夢を見たという。平安時代において、夢は高尚なものである。その彼が見た、素晴らしい夢。詳しく知りたいものの、恥ずかしがって教えてくれない。


「そういえば、成田。山岸が私の家系図を作ってくれるらしいぞ」


 結局、話題を逸らされてしまった。仕方がないので、彼に合わせる。


「時間を飛んだということは、彼に伝えたのですか」


「いや、それは信じてもらえないだろうからな」


 平安から来たと言わずに、どうやってミツルの家系図を作るのだろうか。スタートラインが分からなければ、無理難題のように思える。そう彼に問うてみた。


「なに、簡単であるよ」


 簡単だと断言できる理由を求めたが、かっかっか、と笑うだけであった。彼の気まぐれに付き合うのは疲れるから、考えることをやめた。


 まず、向日市に訪れる。やることは昨日と同じだ。手当たり次第に聞き込む。旅館の件のように、たまたま訪れた場所で怪異が発生してくれれば都合がいいものの、株を守りて兎を待つことはしたくない。能動的に探してこそ、怪異は見つけられるものである。そう信じたい。


 次に長岡京市。朝方だが人は多い。それから淡々と聞き込みをして、着々を情報を集めた。中には、京都市に突然巨大な塔が現れた、と話す人々もいたが、それに関しては既知である。むしろ、この街の誰よりも知っているだろう。


 最も有益だった情報は、昨日私たちが発見した山小屋のことである。主に高齢の人々が見かけたと言っているが、海にあったとか、はたまた近所に建てられていたとか、時期から場所までまちまちだ。そんな沢山あるはずがない。


 有益ながら不確定。どうして怪異とは、こうも私を焦らすのだろうか。


 宇治市で最後の聞き込みを終えた時には、とうに昼も過ぎていた。


「成田、見ろ」


 彼が指をさす。テーピングされた人差し指は、一日経ったからか、昨日までの腫れが嘘のように引いている。あの時の表情がフラッシュバックしても、もう苦しくはならない。


「私の指を見るな。指先を見ろ。ほら、あれは牛車であるよ」


 指の先を見ると、人力車が一台ぽつねんとあった。人力車よりも三十センチほど小さな車夫は、深く傘を被っているものの、あまり歳を取っていないと思われる。


 ミツルに、人力車のことを説明した。すると、案の定、乗ってみたいと言い出した。移動ならばバスを使った方が断然安いものの、人力車のまとう硬派な雰囲気には、好奇心の自制など敵わないだろう。仕方あるまい。私は財布に手を合わせた。


「大人二名で、乗せてもらえますか」


 車夫に訊くと、彼は深く頷いて、私たちを赤い席に座らせてくれた。なんとも座り心地のよい席だ。座布団のようである。


「どちらまで」


 ぶっきらぼうな口調と対照的に、声にはふんわりとした優しさを感じる。ところで、行き先を決めていなかった。「おすすめ」とか「適当に」とか注文するのは私の道徳に反する。


 ふと私は、ミツルと初めて出会った日に、彼が十円玉を眺めていたことを思い出す。十円玉に描かれているのは平等院鳳凰堂。そして、平等院があるのは、今いる宇治市だ。


「平等院まで、お願いできますか」


 私が言うと、車夫はまた頷いて、ゆっくりと人力車を押した。車椅子にも当てはまることだが、誰かの手を借りて景色を見ていると、なんだか足の感覚がなくなったように思える。私は足をぶらぶらして、自身の五体満足を確認していた。


「成田。この人力車は、どこに向かおうとしている」


 車夫とは現代語で話していたので、ミツルには行き先が分からないのだろう。


「内緒です」


 サプライズも兼ねて、そんなことを言ってみた。


 少しばかりの雨音が聞こえる。空は晴れているのに。これは怪異だろうか、と一瞬考えたものの、これは狐雨だということを思い出した。ミツルは、私の予想通り、これは怪異だと主張していたので、狐雨の原因について教えた。


「狐雨が降る理由は、雨が降っている時に雲が移動してしまった場合、または、風邪によって遠くの雨が飛ばされてきた場合です。さきほどまで晴れていたので、今回の場合は後者でしょう」


 途端、人力車が速度を緩めた。何か障害物にでも引っ掛かったのだろうか、と心配になって、車夫に声をかける。


「いえ、懐かしくなって」


 彼はそれだけ言って、また元の速さに戻った。ミツルも車夫を心配していたので、あらましを説明すると、狐雨に思い出があるのだろうな、と物思いにふけていた。


「人力車は、雨でも雪でも走ります。緊急事態には、是非よろしく」


 車夫は走行中に街案内をすると聞いたことがあったものの、今回の車夫は、それ以外に何も言わなかった。照れ屋なのかもしれない。もしくは、私の認識が間違っていたのかもしれない。


 平等院には三十分ほどで到着した。入口から平等院は見えないので、まだサプライズはお預けである。平等院周辺の自然に趣を感じながら、あっ、と驚いてくれるのが理想である。


 ただ、人力車が停まるなり、ミツルはすぐさま建物の方へ走った。たいそう張り切っているのだろうか。それにしては、足音が軽快ではない。


 彼を心配しながらも、車夫に二人分の運賃を払う。二日乗車券が適用できればよかったのだが。なんだか損した気分にはなる。ただ、気に留めるほどでもない。


 ミツルの後を追うべく、私も走ろうとした。だが、呼び止められる。


「ありがとうございました」


 振り返ると、車夫が頭を下げていた。それも、何秒もだ。一期一会を大切にする、という営業の魂胆には見えない。それこそ、私は彼と、どこかで会ったような気がするのだ。


「成田、早くするんだ」


 ミツルに急かされる。車夫に一度頭を下げてから、私も正門へと向かった。


 平等院は、道中にも観音堂や最勝院といった、一度は見ておくべき値打ちのある建物がずらりとある。にもかかわらず、ミツルは目もくれずに走った。私も追う。砂利の擦れる音が歯がゆい。彼は通行人に何度もぶつかりそうになり、その度に私が謝った。


「何があったんですか。何がミツルを急かしているんですか」


 叫んでも届かない。息切れする。だが、一度でも止まっては、二度と彼の背中に手を伸ばせない気がする。まっしぐらに走る。


 彼が立ち止まる。私も同様にする。目的地は、やはり平等院鳳凰堂。十円玉の表側。


「そうですよ。これこそ、平等院鳳凰堂。十円玉の、あの建物です」


 息切れしながらも、かの建物を睨んでいる。知っている、と横顔で伝えている。


「世間では、藤原頼通が、父である藤原道長の繁栄を象徴するために建てたと言われています。ですが、元々は藤原の建てた別荘『宇治殿』だったようです」


 古典について研究しているものだか、つい解説を挟めてしまう。平安時代に生きるミツルには必要ないか、と苦笑いしようとする。


「成田」


 彼は、怯えた顔で私を見ていた。


「どうして、藤原の名前を知っている」


「歴史の授業で習いましたよ。平安時代の貴族って」


 自分で言って、はっとした。ミツルが追っているその人物は、巨万な富を築く貴族。なぜ気付かなかったのだろうか。彼が十円玉にこだわったことも、平安時代の貴族といえば、まず藤原家が連想されるということも。


「ミツル。あなたが追っているのは、まさか」


「そのまさかであるよ」


 ミツルは、足元の、それこそ蟻ほどに小さな砂利を掴む。


「私は、令和に潜伏する藤原道長を、そして、奴が起こす怪異を止めに来た」


 砂利が投げられる。弧を描いて、水に落ちたら、それっきり姿を見せない。底なしの水に飲まれた、ちっぽけな存在。未来の暗示だと思ってしまった。


 彼の手が震えているのを、私は、ただ見ることしかできない。

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