信長が京に帰ってくる二日前のことである。
伊東はある男と会合――密会をしていた。
「海援隊と陸援隊が新選組と手を結ばれたら、困るのはあなたでしょう――伊東さん」
男は渋い顔をしている伊東に優しげな口調で話しかけた。
その男の語る言葉は伊東の深いところに染み渡る。
「私はね、薩摩藩のことだけを考えているんじゃない。日本全てを考えているのです。武力倒幕もそうです。徳川家に兵権を持たせたままだと倒幕の意味がありません」
「……私に、何を望んでいるんですか?」
男はにっこりと邪悪に微笑んだ。
伊東からその言葉が引き出せたのを心から喜んだ。
「あなたに提案したいのは、新選組から抜け出して私たち尊皇攘夷の派閥に入ってもらうことですよ」
「それは難しい……山南総長の死で、皆尻込みしています」
「方法に寄りますよ……まずは、この男を殺しなさい」
そう言って、すうっと紙を手渡す男。
伊東が紙を開くと見知った名の下に『
また命じた者の名も書かれている。
「伊東さん。まずはその男の油断を誘って殺しなさい」
「し、しかし。この人は――」
「優遇してくれた? いえ、あなたは騙されたんですよ。あなた自身、そういう気持ちがあったでしょう?」
男の言葉は伊東の弱いところをくすぐっていく。
何故か――従いたくなる。
何故か――抗いたくなくなる。
「騙し討ちしようが、闇討ちしようが、あなたの将来のために、殺さねばなりません」
「…………」
「ご安心ください。私のほうでも手練れを用意しました」
柏手を叩く男。
奥の襖から別の男が出てくる。
「西郷さんに言われたから、あんたに従うが。あまり気乗りしない」
「そう言わないでくださいよ……半次郎さん」
人斬り半次郎はふんっと鼻を鳴らした。
伊東は江戸でも指折りの道場主だった。
だからこそ、目の前の半次郎の実力がよく分かった。
おそらく、彼なら――斬れる。
「あなたの仲間と半次郎さんで、かの者を斬ってくれますね?」
伊東は怪しげな魔力を男から感じていた。
「……不思議なことです。本来なら受けられない汚れた行ないを、あなたの言うことなら聞き入れてもいいと思ってしまいます。士道や誇りなど、どうでも良くなる」
男は穢れた、それでいて穏やかな笑みをしながら、伊東に優しく言う。
「良いんですよ。もっと汚れに染まっても――」
その交渉を見ていた半次郎は吐き気を催していた。
西郷さんはどうしてこの男を信用しているのか、まるで分からない――
◆◇◆◇
「ど、どういうことだ!? 何があった!?」
土佐から帰ってきた信長が動揺するのも無理はない。
新選組の屯所が真っ赤に燃えていたからだ。
まるで戦が起きたかのように――
時刻は深夜、いや明け方近くだった。
隊士が大勢いる屯所でこのような大火事になれば、被害はとんでもないことになる。
「ノブ! 急いで避難するぜよ!」
同行していた坂本が信長の肩を引っ張る。
それに「皆を助けなくていいんですか!」と山野が反論する。
「俺らまで巻き込まれてしまうきに、それに状況が分かっちょらんときに動くのは危険ぜよ!」
「……坂本の言うとおりだ。行くぞ」
「しかし――」
信長の決定に山野は渋っていたが、吉村が「行きましょう」と腕を引っ張ったので否応なしに従った。
とりあえず、前に屯所があった八木邸に向かおうとしたとき、目の前に新選組の隊士が五名いたのを見つけた。
「おい! おぬしら! 一体何があった!?」
「お、織田総長……」
五人の隊士は信長を見た瞬間、刀を抜いた。
吉村が「な、何をするか!?」と怒鳴る。
「聞きましたよ……総長が火を放ったって!」
「ふざけるな! 今、土佐から帰って来たんだろうが!」
「土佐に行ってきたのは嘘だと、隊長から聞きました!」
混乱していて、その隊長の言ったことを鵜呑みにしているようだ。
殺気立っている。こちらの言うことを聞く気が無いらしい。
「どうする、ノブ? 下手な説得は聞いてくれなさそうぜよ」
「……是非も無し。山野、吉村。斬り合うのはなしだ」
信長は手を上げて「その隊長の元に連れていけ」と言う。
「まずは誤解を解かねばならん。案内しろ」
「た、隊長は、見つけ次第斬れと――」
「それはおかしな話だ。儂を斬ったらどうして行なったのか、理由が分からなくなる」
隊士たちは各々顔を見合わせて――刀を仕舞った。
そして二人が信長に近づいていく――その隙を突いて、山野と吉村がさっと刀を抜いて二人を峰打ちした!
「なあ!? どうして――」
「斬り合うのはなし、そして手を上げるときは捕縛しろの合図。そうですよね、総長」
「上出来だ、山野」
二人が気絶したのを確認すると「これで数はこちらが有利だな」と信長は懐から短銃を取り出した。背中には坂本から貰ったスナイドル銃が包みに入れて背負っている。
「さっさと隊長の元に案内しろ。ま、おぬしらの顔を見て思い出したがな」
隊士の所属を覚えている信長は冷酷な声で言う。
「三人のうち、誰かは死ぬことになるぞ……武田観柳斎はどこにいるんだ?」
◆◇◆◇
一方その頃。
屯所から逃げ出せた沖田と永倉、そして井上と原田は隊士を引き連れて八木邸に向かっていた。
大火事になる前に外に出られたのは僥倖だった。
まだ大勢、隊士が残っていると思うと残念な気持ちになるが――
「近藤さんと土方さんたち、無事でしょうか?」
走りながら隣の井上に訊ねると「分からない」と息を切らした返事が返ってくる。
「おそらく土方さんは隊士を率いて脱出したと思うが――」
「とにかく、今は安全なところに向かおう」
永倉の言葉に「そうだな」と賛同したのは原田だった。
「こんな深夜に火を点けやがって。誰の仕業だ?」
原田以外の隊長格の者は気づいていた。
これは伊東一派の仕業だと。
だが根拠なしにいい加減なことは言えない。
「――まさか、こんなに生き残りがいたとは」
曲がり角を曲がったときに、大勢の集団がいたことに気づく四人の隊長と少数の隊士。
見知った顔が多いが、その中で一番目立つ者は――
「す、
新選組九番隊隊長であり伊東甲子太郎の実弟、鈴木三樹三郎が沖田たちの二倍の隊士を率いていた。
けれど歓迎する雰囲気ではない。
待ち伏せされた気分だった。
「悪いが死んでもらう」
「……はっ。つまり屯所に火を点けたのは、てめえらってことか」
原田が槍を構えて戦闘態勢になる。
永倉も同じく刀を構える。
「話が早くて助かるよ。兄はできることなら隊士を殺したく無さそうだったが、この私は違う。殺しておかねば寝首を掻かれることになる」
「よく分かっているじゃあねえか。兄より素質あるぜ」
原田の言葉に「君に褒められても嬉しくない」と鈴木は吐き捨てた。
「皆の者、やってしまえ」
その命令で一斉にかかっていく隊士たち。
沖田は「副長、どうします?」と井上に言う。
「一応、同志たちですけど」
「やむを得ない。全員――斬ってよし!」
原田は歯を剥きだしにして「おう、分かったぜ!」と正面の隊士の喉笛を突く。
永倉は悲しげな顔のまま、斬りかかってきた隊士の胴を斬る。
「源さん。私は大将の首、取ってきますよ」
「無理しないでおくれよ、総司」
沖田は素早い動きで隊士たちを斬りつつ――鈴木に迫る!
それに対し、鈴木は「舐めるな!」と吼えた。
「田舎道場ごとき、兄どころか私にも劣るということを――見せてやるわ!」
鈴木も刀を抜き、沖田の袈裟斬りを受け止める。
刀同士の斬り合いで火花が散る。
男たちの咆哮が京の夜に響き渡る――