「信長さん、薩摩藩の西郷吉之助という男をご存知ですか?」
上座に座る近藤は目の前に座っている信長に問いかけた。
屯所の一室。二人きりの空間。外は隊士たちの訓練の声で騒がしい。
信長は「ああ、知っている」と比較的素直に答えた。
「本屋で偶然、出会ったことがある。なかなか大きな人物だ」
「その西郷に探りを入れてほしいのです」
近藤は「先の長州征伐は、薩摩藩の働きかけで有耶無耶な結果になりました」と苦々しい顔で告げた。信長は桂から聞いていたので、ああやはりかとしか思わなかった。
「もし、薩摩が反幕府側の雄藩と手を結んだら――危ういです」
「あやつらは
「ええ。関ケ原以来の恨みです」
信長は「家康め。年を取って丸くなり過ぎだ」とぼやいた。
「それで、儂はどんな探りを入れればいい?」
「難しいですが、長州藩との関わりがあるのか……それと雄藩に手を貸していないのか。お願いします」
信長は「ああ、分かった」と頷いた。
「沖田も連れて行く。儂の護衛としてな。直接会いに行く」
「そこまで危険な真似をしなくても……」
「虎穴に入らずんば虎子を得ず。危険なことをしなければ手に入らない情報はない」
信長は快活に笑ってその場を去った。
一人残された近藤は「本来ならば私がやるべきことだが」と呟く。
「軽々しく動けなくなったのは、新選組にとって良いことか、それとも……」
◆◇◆◇
「ねえノブさん。西郷って人、どんな顔なんですか?」
「達磨みたいに目がくりくりしている……何故人相を今聞いた?」
「だって、もし幕府を裏切っていたら殺さないと」
沖田は物騒な性格になったなと隣を歩く信長は感じた。
いや、そうでなければこの京を生き残れなかっただろうとも考える。
「うつけが。もし殺したら儂らも生きて薩摩藩邸から帰れないぞ」
「あ、そうですね。じゃあ西郷が長州藩とつながっていたらどうします?」
「近藤に報告する。ただそれだけだ」
信長の至極真っ当な意見に沖田は「それで解決するんですか?」と不満そうに言う。
「儂らがこれからすることは、西郷が長州藩とつながっているかどうかの調べ。そしてその証拠を見つけるか、奴に自白させるか。そして発覚した場合、それを近藤にまで持ち帰る……難易度が高いぞ?」
「あははは。やりがいがありますね。でも私は剣しか触れませんので。斬った張ったの場面にならない限りはノブさんに任せます。口も挟みません」
戦闘では心強いが、交渉だと頼りなく思える。
しかし危うい交渉の場に行くと考えれば沖田総司ほどの抑止力はない。
「頼りにしているぞ。もし西郷を斬るときは人差し指を向ける」
「かしこまりました」
そうした会話をしつつ、信長と沖田は薩摩藩邸の前に着いた。
門番の「何用でごわす?」との問いに「新選組だ」と名乗った信長。
「六番隊隊長兼総長の織田信長と一番隊隊長の沖田総司が西郷吉之助殿に会いに来た。門を開けられよ」
「西郷様は不在でごわす」
「嘘をつくな。西郷がここにいることは調べがついている」
監察方の山崎丞が調べたのだから間違いはない。
すると門番が「西郷様は誰とも会わん」と突っぱねた。
「お帰りもうせ」
「……そういえば、西郷に本を貸す約束をしていた」
信長は懐から一冊の本を取り出した。
そして門番に手渡す。
「これを西郷殿に渡してくれ。きっと会ってくれるはずだ」
「……しばらく待ちい」
門番が中に入り、少しした後「お待たせしました」と帰ってきた。
「西郷様がお会いになると……あなたは何者ですか?」
「さっき名乗ったであろう」
「西郷様は幕府のお偉い方でも会いたくないときは会わないお方です」
案外、わがままなのだなと思いつつ、信長は沖田を伴って薩摩藩邸に入る。
藩邸には当然のように武士たちがまばらにいたが、誰もがこちらを敵視していた。
身内しか信用しない秘密主義の集まりであると聞かされていたが、本当にそうなのだなと信長は思い、沖田はいつでも抜刀できるようにした。
奥の間に通されると、そこには西郷がいた。
興味深く本を読んでいる。
その近くには男がいた――本屋にもいた半次郎だと信長は思い出した。
「ああ、久方ぶりですね。織田信長殿。そしてそちらが……沖田殿か」
「ああそうだ。
西郷は「話し合うときは丁寧に話すと決めております」と
「もう関ケ原の戦いは繰り返したくないですから」
「ま、良かろう」
「それで何の用ですか?」
信長は「その前に、その本はどのくらい読んだ?」と訊ねる。
西郷は「数枚しか読んでないです」と素直に答えた。
「そうか。本の話題を話したかったが。ま、それでも早いほうか」
「織田殿はこれを読んでどんな感想を思いましたか?」
「そうだな。戦はどんどん変化していくものだと思った」
信長は「儂が銃を運用するときは」と話し始める。
「横隊を作って射撃させていた。しかし連発できる銃があれば隊列など必要ない。それどころか散兵だけになる」
「なるほど……」
「戦国の世では騎馬が主流だったが……もはや時代遅れだな」
西洋式軍略の話を少しした後「実はおぬしを探るように言われていた」と信長は明かした。
西郷は「知っていました」とあっさり答えた。
「だが探るのも馬鹿馬鹿しくなった。何故なら――すべて怪しいからだ」
「すべて怪しい?」
「隠すつもりもないのだろう。おぬしは幕府を倒す」
西郷は「今の薩摩藩の立場、お分かりでしょう?」と肩を竦めた。
「幕府と長州藩の争い。それに薩摩藩が味方したほうが勝つ。あなたならどうする?」
「三百年前の復讐を果たすのか? それこそ馬鹿馬鹿しい」
「それは恨みの無い者だから言えるのです。父祖以来の恨みが俺の中にはあります」
「……懐かしい。徳川、いや松平と同盟を結ぶとき、同じことを言われた」
信長の普段とは違った笑みに、隣にいた沖田はどうしてか悲しみを感じた。
「だが憎しみで世の中を変えれば、歪みが生まれる……儂はそれを学んだ……」
「ならば織田殿がやってきたことは無意味だったと?」
「結果として、織田家は滅んだ。天下を取れなかった。それは儂のせいだ。恨みを方々《ほうぼう》に残してしまった故の滅びだ」
西郷は「だとしても俺は止まれません」と言う。
「やらずに後悔するのなら、やって後悔したい」
「ま、それもそうだな……これ以上、話しても意味はない。儂らは帰らせてもらうぞ」
信長が立ち上がると「俺が素直に帰させると思っているんですか?」と西郷が凄んだ。
沖田と半次郎が同時に刀を手にかけた――
「儂らを斬る? やってみせよ。真っ先におぬしが死ぬぞ? それに藩士の何人か、道連れにしてやる」
「…………」
信長は「沖田、行くぞ」と告げる。
沖田は警戒しつつ立ち上がった。
「待ちや。あんた、沖田総司か?」
それまで黙っていた半次郎が沖田に言う。
「ええ、そうですけど」
「天才剣士と謳われる凄腕……一度刀を交えたいな」
沖田は油断なく「ええ、機会はあると思います」と応じた。
二人の間に殺気が流れる。
「小奇麗な恰好をしていますが、あなたの身体から血が臭いますよ……人斬り半次郎さん」
「おいの素性、知っておったか」
「知らないほうがおかしいです」
殺気が静まった後、沖田は信長に「行きましょう」と言う。
黙って二人は部屋を出て、薩摩藩邸から数十歩離れたところで「ふう。緊張したわい」と信長が笑った。
「……近藤さんに頼まないといけませんね」
「何をだ?」
沖田はぎらついた眼をしていた。
まるで人を斬った後のようだった。
「人斬り半次郎と勝負がしたい――ということを」