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第33話信長、池田屋で抜刀する

 真っ先に刀を抜いた男――否、真っ先に斬られてしまったのは宮部鼎蔵の弟子、松田重助であった。刀を正眼に構えようとした瞬間、沖田の神速とも言える素早い居合切りで、右腕がずばりと斬られてしまった。


「うぎゃあああああ!?」


 その悲鳴を皮切りに勤皇志士たちは二つの行動に分かれてしまった。

 踏みとどまって戦おうとする者とこの場から逃げ出そうとする者だった。

 この場には二人しかいないとはいえ、新選組は四十名の部隊だ。

 もしも、全員で出動していたら――勝てる道理などありはしない。


「――っ!」


 逃げ出そうとする者の中で、最も素早く、最も賢く逃げ出せたのは――桂小五郎だった。

 顔を近藤と沖田から隠しつつ、戸が閉まった窓をぶち破って屋根の上に出る。


「…………」


 そして無言のまま、彼は己の所属である長州藩邸ではなく、懇意にしている対馬つしま藩邸へと逃れた。

 おそらく新選組が長州藩邸までの道を封鎖していると考えての行動だった。

 彼は最適解と言うべき逃走に成功した。

 池田屋にいた勤皇志士たちの末路を考えれば見事としか言いようのない、逃げっぷりだった。


「くっ――」


 それを見た志士の一人が窓に近づくが、沖田が素早く「それ以上は逃がしません!」と窓を塞いだ。思わず立ち止まってしまった――そこに近藤が斬り込む。


「ぐは――」


 しかし浅い。これは近藤の腕が未熟ではなく――片腕を失った松田重助が苦し紛れに近藤の袴を左手で掴んだからだ。


「に、逃げ――」

「――放せ」


 近藤は松田の首元に刀を突きさして――とどめを刺した。

 師匠である宮部鼎蔵は「重助……!」と悔しそうな声を漏らした。


「総司! 誰一人逃がさぬ心構えで――立ち向かえ!」


 近藤の虎のような大声で志士たちは狂乱し、部屋を出て一階の階段から出ようとする。

 しかし――


「信長さんのおっしゃったとおりですね」

「ふひひひ。たった二人でもそりゃ逃げるわい」


 谷三十郎が階段の真ん中で仁王立ちしている。

 一対一の形になるが、数人で押し合えば対処できる――とは誰も思えなかった。

 何故なら、谷は槍を真っすぐ構えていたからだ。


 狭い通路に柄の長い槍。

 これでは一方的にやられてしまう。

 しかも――


「止まっていると危ないぞ?」

「っ!? ぎゃああああ!?」


 信長が谷の後ろから短銃を撃っている。

 しかも狙いが正確で決して谷を撃たずに志士たちを撃ち抜く。


「くそ! これでは――」

「中庭だ! 中庭から――」


 そう指示した者が信長に脳天を撃たれて死んだ。

 ますます狂乱する志士たちは急いで中庭のほうへ向かう。


「ふひひひ。うつけが」


 信長は残っている志士たちを牽制しながら愉快そうに笑った。


「ここよりあっちのほうが地獄だわい」


 その言葉通り、中庭に下りた志士たちに待ち受けている者は――


「逃がさぬぞ!」

「全員、斬る!」


 新選組の中でも腕利きの男、永倉新八。

 そして心優しき剣士、藤堂平助だった。

 二人は下りてくる志士たちは冷静に一人ずつ斬っていく。


「どうする!? このままだと――」

「相手は二人だ! 一斉に下りて囲んでしまえば、倒せる!」


 その言葉に勇気づけられたのか、はたまた自棄になったのか――続々と志士たちが中庭へ下りていく。

 永倉と藤堂は背中合わせになった。


「ここが正念場だぞ――平助!」

「ええ、永倉さん。魁先生の由縁、見せてやりますよ!」



◆◇◆◇



「はあはあ、ここから早く逃げないと……!」


 窓に近づいて近藤に浅く斬られた男――結果的に松田重助に助けられた男は別の窓から逃走を図って、池田屋からは脱出できた。

 けれど、屋根伝いに逃げることは叶わなかった――浅くとも斬られていた影響で足を滑らせたからだ。足も挫けてゆっくりとしか歩けない男の名は――望月亀弥太もちづきかめやた土佐勤皇党とさきんのうとうの一員で坂本龍馬に可愛がられていた。


 彼は周りの者が騒ぐ中、必死に長州藩邸へと急いだ――そこに一人の男が駆けつける。


「望月! どないしよった!?」


 土佐弁で話しかけたのは、同郷の野老山吾吉郎ところやまあきちろうだった。彼は会合に呼ばれていなかったが、騒ぎを聞きつけてやってきたのだ。


「野老山……池田屋で新選組の襲撃を受けた……」

「なんやと!?」

「早く長州藩邸に……!」


 野老山は「分かった!」と力強く頷いて、望月に肩を貸した。

 二人はかなり目立ったが、運良く会津藩や新選組に見つからずに長州藩邸に辿り着いた。

 否――彼らにとっては運が悪いことだった。

 何故なら、藩邸の門は固く閉ざされていたからだ。


「なんで閉めるんじゃ! 長州藩は同志を見捨てるんか!」


 野老山の怒声。

 望月は出血多量で何も話せない。

 そこへ一人の志士が現れた。


「な、なんじゃ……」

「長州藩士、杉山松介すぎやままつすけ


 その男、杉山は泣いていた――怪訝に思う野老山を半ば無視して「上は同志を見捨てた」と言う。


留守居助役るすいじょやく乃美のび様がお決めになった――会津藩と幕府を相手取るのは駄目だと。同志たちは見捨てろと」

「馬鹿な……この国を変えようとする同志たちじゃろ!」


 杉山は涙を拭い「あんたの言うとおりだ」と応じた。


「だから俺は先ほど、脱藩した」

「なに……? ま、まさか!?」

「俺一人でも助けに行く」


 杉山は既に覚悟を決めたようだった。

 それを見て野老山も力強く頷いた。


「俺も戦うきに! 望月、おまんは――」


 野老山が望月を見たとき。

 既に彼は自害していた。

 長州藩が自分たちを見捨てたことに絶望したのだろう。


 とても皮肉なことだが。

 池田屋の会合で古高俊太郎を助けないという結論を出した彼らは。

 同じ理由で――長州藩から見捨てられた。


「望月……杉山さん、行こう」

「……私はこの人を知らない。でも、この人の無念を晴らすため、同志たちを助けるために戦おう」



◆◇◆◇



 池田屋の二階。

 そこで近藤は一人で戦っていた。

 沖田が逃げた吉田稔麿を追ったからだ。


「大丈夫ですか、近藤先生」


 追う際、沖田は近藤に確認した。


「天然理心流四代目宗家を舐めるんじゃない……私一人で十分だ」


 ぎらりと虎徹を煌めかせて、残り少ない志士たちに睨みを利かせるその姿は、近藤自身が憧れた虎退治の加藤清正を彷彿ほうふつとさせるようだった。

 沖田は笑って「失礼しました」とその場から去った。


「田舎道場の主ごときが、あまり我らを舐めてもらっては困るな」


 宮部鼎蔵ら四人の志士は刀を構えた。

 ここまで残った強者だ。

 それに近藤は歯を剥いて――威嚇した。


「さあ、来い。お前らに本物の剣術ってやつを教えてやるぜ」


 沖田は志士たちと同じように中庭へ飛んだ。

 そこでは藤堂平助が息を切らしながら多数の志士たちと戦っていた。


「平助! 助けに来たぞ!」

「沖田さん……! 助かります!」


 まだ不利な状況なのに、百人の味方を得た気分の藤堂。

 沖田は「永倉さんは?」と訊ねた。


「奥の部屋で戦っています……あっちは九人」

「こっちは七人か……永倉さんを助けに行かないと」


 要は全員斬るか戦闘不能にしなければならない。

 場が緊張で包まれる中、一人の志士が「これを使え!」と乱入してきた。


「……っ!? 不味いことになった!」


 沖田は声に出し、藤堂は息を飲みながら思った。

 その志士が持っていたのは――数本の槍だった。

 志士の各々が二人を警戒しつつ槍を手に取る。


 池田屋には古高の桝屋と同じく武器を隠していた。

 そこから槍を数本取ってきたのだ。


 沖田と藤堂が焦っているのは、柄の長い槍ならば刀が届かない位置から攻撃できるからだ。

 囲まれて突かれてしまえば一巻の終わりである。

 まさに谷と信長が行なったことを今度は二人がやられる番だった――



◆◇◆◇



 池田屋の階段。

 谷と信長は敵の逃走を防いでいた。

 このまま睨み合いが続けば、土方たちが直にやってくる。

 そうなればこっちのものだと信長は考えていた。


「……皆の者、あとは任せたぞ」


 大高又次郎が覚悟を決めたように――階段から谷に向かって飛んだ。


「なにぃ!? 死ぬ気か――」


 谷が驚くのは無理もない。

 明らかに死を覚悟した突撃だったからだ。

 しかし驚いた谷だったが、彼は槍の達人である。

 飛んだ大高又次郎の人体の中心めがけて――貫いた。


「ごぶ……」


 大高又次郎がこの時点で絶命したのかは分からない。

 けれど最期の力を振り絞って――槍が抜けないように強く握った。


「こんの――うわあああ!?」


 階段の中ほどにいた谷。

 大高の体重を支えられずにそのまま後ろへ落ちてしまった。

 階段の下で尻餅を突いた谷。

 信長は「不味いことになったな」と刀を抜いた。


「槍が折れたぞ! 今なら階段から逃げられる!」


 志士たち数人が一斉に階段を下りてくる。

 信長は「谷、早く立て! 武田、浅野! こっちに来い!」と素早く指示を出した。

 表の門を固めていた武田と浅野が中に入り、刀を構えた志士たちと膠着状態になる。

 谷もなんとか刀を抜いた状態だ。

 そこへ――


「杉山松介、推参!」

「野老山吾吉郎、義によって助太刀いたす!」


 長州藩邸から駆け付けた二人が援軍でやってきた。

 安堵の表情を見せる志士たち。

 その反対に苦渋の表情の信長。


「土方め……まだ来ないのか……!」


 志士の一人が信長に斬りかかる――素早く信長は左手に持った短銃で撃つ。

 当たったのか分からないが、怯んだその男を今度は右手の刀で斬る!


「ぎゃあああああ!」

「まったく、儂は五十路だぞ? 働かせすぎだわい」


 愚痴る信長だが顔は笑っていた。

 まるで腹を満たされた子供が遊びまわるような表情だった。


「さてと。いつまで防げるか――」


 池田屋の戦いは、まだまだ終わらない。

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