八木邸でのことである。
時刻は夕暮れになろうかというところだった。
「沖田。もう細雪と会うのはやめろ」
「……いきなりなんですか、ノブさん」
恋しい女と会うのをやめろ。
たとえ年長者に言われてもそれで納得するものはいない。
当然、沖田は反発した。
「細雪さんのことは、ノブさんと関係ないでしょう」
「まあそうなんだが。あの娘にかまけて剣の腕が落ちるのはよろしくない」
信長は珍しく言葉を選びながら会話する。
なるべく沖田の神経を逆撫でしないようにだ。
「おぬしも分かっておろう。己の腕が鈍っていることを」
「重々承知しています。それでも私の剣は誰にも負けない自信があります」
「自信だと? そのようなあやふやなもの、あてにならん。確実に勝てると信じる心――確信がなければな」
「言葉遊びしないでください。とにかく、私は細雪さんと会うのをやめません」
基本的に沖田は信長の言うことを聞く。
しかし、恋で自分を失っているので言うことをきかない。
たとえ近藤や土方が言い聞かせても無理だろう。
「頑固だのう……」
別れの挨拶もなく、足音を大きく立てて不機嫌そうに去る沖田に信長は残念そうに呟いた。
本当に――残念そうだった。
信長は沖田が言っても聞かない性格であると分かっていた。
というより、恋で盲目となっている男に別れろなどと言っても無駄である。
それが分かっていながら信長が沖田に言ったのは――
「是非もなし、か……」
◆◇◆◇
「細雪さん、元気ないですね。どうかしたんですか?」
「いえ……」
祇園の牡丹屋。
すっかり日が落ちた時刻。
沖田は細雪と会っていた。
しかしまだ艶やかな関係にはなっていない。
食事を一緒にしたり、酒を飲んだりしてゆったりと過ごしていた。
それだけで沖田は満足できた。
さらに細雪のことを大事に思っている。
以前、彼女が客にひどいことをされたことを彼女自身から聞いて、沖田は怒り悲しんで、彼女を守ろうと決めた。
「すみません。私の話題がつまらなくて……退屈、ですよね?」
「そんなこと、ないです……」
こほんと咳払いする細雪。
少しだけ顔を赤らめながら沖田に「一緒にいて、楽しいです」と言う。
「ずっと、このままでいたいと思ってしまいます」
「細雪さん……」
「でもそれは叶わないこと。私は……遊女なのですから」
切なげに顔を傾ける細雪。
沖田は胸を締め付けられた。
「私は、細雪さんに救われたんです。初めて私が人を斬ったとき、黙って抱きしめてくれた」
「……差し出がましいことをしました」
「いえ。それがたとえようもなく――嬉しかった。あなたの心に触れた気分でもあったから」
細雪は「沖田さんを慰めたかったのです」と優しげに、それでいて儚げに言う。
「いつも優しく親切にしてくれる沖田さんのために何かしたかったのです」
「……私は、あなたのことが好きだ。細雪さん」
意を決したように、沖田は細雪の手を取った。
美しく目を見開く彼女に「あなたを
「まだお金は貯まっていないけど、必ずあなたを――」
「そんな……私に価値などありませんよ」
沖田は細雪の手を壊さぬように、優しく握った。
「私はあなたになら全てを捧げてもいい」
「…………」
「だから少し、待ってほしい」
沖田の言葉に、細雪はにっこりと微笑んだ。
本当に幸せそうに。
本当に愛しているように。
彼女は本心から笑ったのだ。
「ありがとう。沖田さん」
そしてその言葉と笑顔に偽りなど無かったのだ。
彼女もまた沖田との生活を夢見ていた。
しかし、彼女はその夜を境に、沖田と会話することはなかった。
◆◇◆◇
三日後、京と近江国の境。
「それでは、細雪のことを頼んだぞ――山野、吉村」
「ええ。美しい私に任せてください」
山野の返事と合わせるように吉村も頷いた。
その間にいる細雪はとても悲しそうな顔をしていた。
大事な人――沖田との約束を守れなかったからだ。
「儂がおぬしを身請けした理由。それは分かるな?」
「……はい」
信長の問いに細雪は咳をしてから頷いた。
「
「ああそうだ。お前は肺を病んでいる」
山野は「よく分かりましたね」と言う。
確かに色が白く、病人に見えなくはないが、病名と症状まで言い当てるのは常人にはできない。
「儂の家臣の軍師に
「……ああ。
吉村が答えると「あの者は若くして亡くなった」と信長は続けた。
「そやつと同じような咳をしておった……だから分かるのだ」
「なるほど……」
「吉村。本当にその者は信用できるのだろうな?」
信長が念を押すと「妻の親戚です」と吉村が答えた。
「空気も良いところです。きっと細雪さんも気に入ると思います」
「であるか……すまぬな。好いた男と引き離す真似をして」
信長の言葉に「……謝らないでください」と細雪は言う。
「謝られても――許すつもりはありません」
「そうだろうな」
「でも、沖田さんに移さないために、私はいなくなったほうが良いんです」
まるで自分に言い聞かせるように細雪は呟いた。
山野も吉村も、彼女を哀れに思った。
信長も一瞬、情が移りそうになった。
けれど心を鬼にしなければならない。
沖田にはつらい思いをさせる。
しかしいずれ、失恋の傷は癒えるし立ち直ることもあるだろう。
今は沖田の強さを信じるしかない。
「細雪よ。おぬしは若いうちに死ぬだろう。どんな名医でも止められぬ」
「覚悟はできております」
「しかし、死んだ後は――儂を恨め」
信長の強い言葉に細雪は息を飲む。
真剣そのものの表情に山野も吉村も言葉が出ない。
「この儂だけをだ。決して沖田を恨むなよ。あやつは何も知らんからな」
「……ええ。そのことだけは、感謝してもいいかもしれません」
細雪は目に涙を溜めながら――笑顔で言う。
「信長さん、私は生きている間も、死んだ後も、あなたを恨みます。私を愛してくれた人から引き離すんですもの」
「……それでいい。その恨み、ゆめ忘れるな」
信長は部下たちに目で命じた。
二人は細雪を伴って京を出た。
その後姿が見えなくなるまで――信長は見続けた。
◆◇◆◇
「……ねえ、ノブさん。どうして私から細雪さんを引き離したんですか?」
細雪が京から去って二日後。
元気のない沖田が信長に問う。
場所はいつもの甘味処だった。
「恋に溺れて剣が疎かになったからだ」
「本当に、それだけが理由なんですか?」
実際は違う。
いずれ細雪は労咳で死ぬだろう。
苦しんでやせ細って弱っていく様を、沖田がどう思うか。
おそらく細雪以上に苦しむことになる。
だからそうなる前に。
細雪が奇麗なままで、沖田の思い出に残るように。
信長は彼女を引きはがしたのだ。
無論、そんなことは沖田には言えない。
だから「さあな」とだけ答えて団子を頬張る信長。
「……私はもう、恋はしません」
沖田は寂しそうに微笑んだ後、信長に言う。
「細雪さんと同じくらい、人を愛せる自信はないですし。細雪さんと同じくらい、好きになれる自信もありません」
「であるか……」
「私、ノブさんのこと、恨んでいますよ」
沖田は笑わずに言い放った。
信長は黙ったままでいる。
「どんな理由があっても、細雪さんを奪ったあなたが憎い」
「ならば斬るか?」
「その前に一つだけ訊きたいですけど、どうして……」
沖田から発せられる殺気。
信長は背筋を伸ばした。
いつ斬られてもいいようにだ。
「選んだだけだ」
「選んだ……?」
「おぬしに恨まれても良いと思った。憎まれてもな。だから細雪を引きはがすという選択を――選んだだけだ」
そのまま、信長は待っていた。
けれど殺気が少しずつ収まるのを感じる。
沖田は「酷いですね」と顔を伏せた。
「まるで何かがあるような口ぶり。そんなんじゃ殺せない」
「ま、儂は第六天魔王だからな。悪知恵くらい利くわい」
「ノブさん。もし、あなたが切腹するとき――」
そこで沖田は屈託のない無邪気な笑みを見せた。
「――私が
「ふひひひ。無論、構わぬ」