「そろそろ、動いてもいいんじゃないか?」
「……そうだな。隊士は十分集まった」
八木邸の新見の部屋。
襖を完全に閉められた空間で、信長は新見に「何人集めた?」と問う。
「四十人だ。ここに名簿が――」
「そのようなもの、軽々しく見せるでない。仕舞っておけ」
信長の指摘に納得した新見は「それもそうだな」と反論せずに懐へ戻す。
「お前を信頼したわけでもないからな」
「ふひひひ。それが正解だ」
「……決行すれば、私が頭として新たな隊が作られる」
信長は新見の笑みを無視して「隊の名は?」と短く問う。
「既に決めてある。『精忠浪士組』だ」
「精忠……ああ、だから背中にそれを表す誠の字を入れたのか」
新見は首肯した。
信長は「そこまで決まっているのなら」と提案する。
「もう決行したほうがいいな。九月までに準備を整えろ」
「性急過ぎないか? どっしりとしていても……」
「四十人も集めて名も決めた。それに壬生寺の敷地も借りられるのだろう?」
壬生寺とはその名のとおり、壬生村にある寺院だ。
「それにだ。九月となれば局中法度が施行される。そうなればより難しくなるぞ」
「……あれか。芹沢先生が延期させた」
苦い顔になる新見。信長はすかさず「八月三十一日に場を設ける」と言う。
「土方と山南に宣言してやれ」
「あの二人、認めるのだろうか」
「局長の判断に副長が反対できん。だからあの二人なのだ。それにおぬしと副長二人が決めたことに芹沢はともかく、近藤は却下せん」
信長はにやにやといやらしい笑みを浮かべた。
新見はまるで魔王と対峙している心境になった。
「まあ任せておけ。段取りは済んでいる」
「……私が壬生浪士組からいなくなることでお前は昇進する運びとなるらしいが、それはどういう経緯だ?」
それが新見に協力する理由だと信長は事前に言っていた。
しかし彼は「それは言えんなあ」と返した。
「策は誰にも明かさない。それが鉄則よ」
そう言い残して、信長は部屋を出た。
一人残された新見はほくそ笑む。
「ふふ。私が頭となれば尊皇攘夷のために動ける。この京で」
新見は尊皇が強い水戸潘出身である。
芹沢に協力してきたのも、それが目的だったのだ。
◆◇◆◇
八月三十一日までの間、新見は疑われぬように局長としての雑務に取り組んだ。
八月十八日の政変以来、壬生浪士組は会津潘に認められ、京の治安維持の役目の権限を強化されていた。聞くところによると、新しい隊の名を賜るかもしれない。
しかし、新見にしてみればどうでもいいことだった。心は己の隊――精忠浪士組で占められているからだ。
そして迎えた八月三十一日。
時刻は昼過ぎ。信長が用意した料亭。
襖を閉められ、日の明かりが差し込まない場。
信長がそれを好んだので新見は仕方なく合わせていた。
「なんだおぬし。疲れているのか」
「まあな。連日の雑務で寝る暇もない」
信長と新見は膳を前に酒を酌み交わしていた。
とは言っても酒の弱い信長は茶である。
「見ろ。ここの料理は美味しいぞ」
「そう、だな。箸が進む……」
新見の視界が少し揺れる。
意識が判然としない。
「――した? 少し――か?」
信長の声が遠くに聞こえる――
新見は――
◆◇◆◇
「おい、新見。起きろ」
頬を叩かれている。
新見はゆっくりと目を開ける。
そこは――襖が閉められた、件の料亭の一室だった。
己が横たわっていることのにも気づく。
「相当疲れていたみたいだな」
信長が呆れたような顔で言う。
新見は「寝てしまったようだ」と起き上がって答えた。
「どのくらい寝ていた?」
「大して寝ておらん」
寝ぼけていて、頭の回りがはっきりとしない。
しかし、膳の椀物の湯気が立ち上っているので、確かに少しの間だと分かる。
「いきなり寝るものだから、死んだかと思ったわい」
「土方たちは?」
「もうすぐ来るだろう。儂は奥の間にいる。何かあれば呼べ」
打ち合わせでは一緒にいるはずだったが、未だはっきりとしない思考で気づけなかった。
水差しから水を飲み、気持ちを落ち着かせていると「入りますよ」と山南の声がした。
新見が「ああ。入ってくれ」と応じた。
すらりと襖が開いて、土方と山南が入る。
「それで、何の用事ですか?」
土方が挨拶もなく本題に入ろうとする。
新見は「壬生浪士組から分隊を作ろうと思う」と早速言った。
「分隊、ですか。それはどのような?」
山南は正座して訊ねた。
土方は胡坐でその隣に座る。
「壬生寺を本部とした、壬生浪士組とは違う組織を作るつもりだ。名は精忠浪士組。既に隊士は――」
懐に手を差し入れた――動きが止まる。
おかしい。いつも入れてあるはずなのに。
「お探しのものは――これですか?」
土方が懐から見覚えのある紙を取り出す。
新見は息を飲む。
間違いない、名を連ねた紙だ――
「よくまあこれだけ集めたものですな」
土方がこれ見よがしに広げる。
山南は紙の名を見つつ「彼らは入って間もない者ばかりだ」と言う。
「口八丁で騙されても仕方あるまい」
「そうだな……なあ、新見さん。局中法度を覚えているか?」
土方の問いに新見は違和感を覚えつつ「……覚えているとも」と慎重に答えた。
「その中に『組から脱することは許さず』という項目があったことも、承知しているはずだ」
「無論だ。しかし、その施行は九月からのはずだ。まだ有効ではない」
土方はにやりと笑って「ええ、そのとおりです」と頷いた。
「だが九月になれば有効だと……あんた認めたな?」
「……何が言いたい?」
山南は素早く立ち上がって、外に通じる襖を開けた。
外は――光も差さない、真っ暗な闇だった。
新見の顔が強張る。
「あんた、相当疲れていたらしいな。信長が笑っていたぜ。薬がすぐに効いたって」
「の、信長……まさか、今は?」
「九月だよ。とっくに日が越えてんだ」
新見はあまりのことに黙ってしまった。
土方は「あんたとこいつらの処遇だが」と言う。
「明らかに隊を脱するつもりだった。こりゃあ全員処罰しないとな」
「それは少しどうだろうか。土方くん」
山南はあらかじめ決まっていたように――言葉を紡ぐ。
「彼らは新参で法度を知らなかった者たちだ。そもそも法度は幹部だけで決めていた内々のこと。それで処罰しようとは無理があり過ぎる」
「それも……そうだな。山南さんの言うとおりだ」
土方も芝居のように台詞をつなげた。
「そういうわけで、こいつらは処罰しないことにした。さて……ここから大事な話をする。よく聞いてくれよ」
土方は山南に無意味となった紙を渡す。
そのまま山南は紙を灯りの火で燃やしてしまった。
それを黙って新見は見ている。
「あんたは法度を知っていた。九月に施行されることも。だったら――処罰されても問題ないな」
「処罰、だと……?」
「切腹ですよ、新見さん」
新見は「局長である、私を切腹させようとするのか?」と反撃に出る。
「そんなこと、芹沢先生が許すはずが――」
「ああ、言い忘れていた。あんたはもう、局長じゃねえんだ」
とどめの言葉を土方は発した。
あまりのことに新見は言葉も出ない。
「今日の幹部会で決めたことなんだ。芹沢先生も了承したぜ。勝手に精忠浪士組なんて作ろうとしたんだからよ。ま、法度が施行する前だったから副長に降格って形になったけどよ」
「ふ、副長……」
「あんたも鈍い男だな。俺がさっきから『新見さん』って呼んでいるじゃねえか」
確かに、土方は自分のことを『新見局長』と呼んでいた。
そう呼ぶことで近藤を偉く見せようという魂胆なのは知っていた。
「……全部、仕組んだことか。椀物が温かったのも」
「冷えていたら時間が経っていると悟られるからな」
「信長が夏なのに締め切った部屋で話そうとしていたのもか」
「外を見れば夜だと悟られる。流石に昼まで眠らせる薬は手に入らなかった」
「局中法度は、この私を処罰させるための、単なる手段だったのか」
土方は「信長が言っていたじゃねえか」と不敵に笑う。
「法度で『確実に葬れる』ってよ。全部、あんたのことだ」
山南は素早く立ち上がり新見の後ろに立つ。
明らかに介錯の体勢だった。
新見は「……感心するよ」と強張った顔で言う。
「この私を嵌めるためにそれだけ多くの罠を仕掛けるとはな……」
「これ以外にも罠はあるらしいけどな」
「土方。お前は怖くないのか? あの信長を」
土方は「すげえ怖えよ」と本音を言った。
「あんたと芹沢を殺した後に殺しておきたいほど――怖い」
「だろうなあ。私は気づくの遅かったよ」
新見は着物の上着をはだけた。
そして土方が差し出した小刀を手に取った。
「山南。お前はどうだ?」
「私は彼を信用していない。だが利用できるのなら生きてもらう」
「お前らしい言葉だ……足元を掬われないようにな」
新見は「これで私もおしまいか」と呟く。
「ま、芹沢に見限られたのなら、仕方ないな――」
◆◇◆◇
「新見は切腹したぞ。次はお前の番だな、芹沢」
「はん。あいつがいなくても構やしねえよ」
新見の切腹と前後して。
信長は芹沢と会っていた。
土方と山南、二人がいてはできないことだった。
「それで、お前はどっちの味方なんだ?」
芹沢の問いに信長は「さあな」と笑った。
「勝ったほうに着くだけよ」
「恐ろしいおっさんだぜ」
「それに新見を殺したかったのはおぬしもだろう?」
「あいつは俺を煙たがっていたからな」
「それで、おぬしもどうするつもりなんだ?」
芹沢は酒を飲み干して、余裕で返す。
「返り討ちにしてやるよ。俺ぁ芹沢鴨だ。そんぐらいできねえとな、頭は務まらねえんだよ」