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第8話信長、酔っぱらう

「土方さん……あの人は何者なんだ?」


 市中の見廻りから帰ってきた斉藤は、開口一番に土方に訊ねる。

 無口な斉藤にしては珍しいなと土方は思いつつ「信長のことか」と応じた。

 土方には大部屋ではなく個人部屋を与えられていた。副長としての職務を行なうためだった。そこに斉藤が入ってきたのだ。


「俺だって知りてえよ。だが連れてきた沖田も分からねえんじゃ仕方がねえ」

「……俺が思うにあれは、本物だ」


 ぼそぼそとした喋り方だが、余程確信がなければ断定しないのが斉藤の性格である。

 それを知っていた土方は「どうしてそう思う?」と話を聞く体勢になった。


「上手く言えないんだが……今を生きていない雰囲気というか……」

浮世うきよ離れしているって言いてえのか?」

「そうじゃない……混ざりこんだ異物だ、あの人は」


 土方は斉藤の言葉を待った。

 年若いが人を見る目――勘が優れている。

 壬生浪士組随一かもしれないと常々思っていた。


「濁りのない水に墨を一滴垂らした感覚だ」

「…………」

「水を黒く染めてしまいそうな危うい……何かがある」


 言い得て妙だと土方は思った。

 戦国乱世の第六天魔王ならば漆黒の墨のようだろう。

 もしかすると、今の世を真っ黒に染めてしまうかもしれない。


「斉藤。お前に頼みたいことがある」


 土方が命令ではなく、依頼という形で物事を言うときは、必ず遂行してほしいときだった。

 斉藤は背筋を伸ばして頷いた。


「あれが壬生浪士組に墨を垂らす存在なら――斬れ」


 斉藤は短く「承知」と答えた。

 彼にとって壬生浪士組は心地の良い居場所だった。

 それを守るためなら手を汚すことはいとわない。


 斉藤が部屋を去った後、土方は一人考える。

 馬鹿馬鹿しいとは思うが、あれが本物の織田信長だとしたら、到底自分では対処できない。

 何せ相手は戦国乱世で天下を取りかけた男だ。


 それに今のところ、信長の都合のいい状況になっている。

 壬生浪士組に居座り、名ばかりではあるが目付に就任しようとしていた。

 その事実に気づくと背中が凍るほどゾッとする。

 自分に優位な環境を築く――昔話に聞いた長篠の戦いのように。


 だがもし、信長のおかげで壬生浪士組が大きくなり、京で指折りの勢力になれたら?

 奴は己の居場所を守るためならそうしようとするだろう。

 不逞浪士や長州の輩が手を出そうと思わないほど、大きく巨大に――


「はっ。そうなったら万々ばんばんざいじゃねえか」


 土方は考えるのをやめて横になった。

 そういう遠大かつ壮大なことを考えるのは近藤や山南の仕事だと放棄した。


 土方には日本を良くしたいという考えはない。

 近藤を頭にして、壬生浪士組を大きくしたいとしか考えてない。

 尊皇攘夷や公武合体などは勝手にやってくれとしか思っていない。

 優先すべきは――壬生浪士組の飛躍だ。


 土方は気づいていないが、ただひたすらに近藤と壬生浪士組だけを考えるのは、ある意味武士のあり方だった。百姓の出であるのにも関わらず、壬生浪士組の中で一番武士らしい思想をしていた。


 そこが土方歳三の美しさと強さであったが、同時に限界でもあったのだ。



◆◇◆◇



芹沢せりざわ局長。こちらが――織田信長さんでございます」


 同時刻。

 信長は芹沢に紹介されていた。


 八木邸の中で最も広くて豪華な部屋の上座に座っている、壬生浪士組筆頭局長の芹沢鴨せりざわかも

 どっしりとした体格に歌舞伎役者のように凛々しい顔。

 見た目は立派な人格者に見えるが、傍には酒瓶が置かれ、お梅というめかけはべらせている。

 とても真面目に話を聞くとは思えない態度だった。


「信長? はっ。偽名のつもりならもっとマシなのを付けろよ」


 芹沢は目の前の男が織田信長とは考えない。

 既に何回も体験しているので、信長もその反応に慣れていた。


「それがどうも、本名らしく」


 先ほどから信長を紹介しているのは山南だった。

 新見との会話で「一応、芹沢局長に会ったほうがいい」となったのだ。

 近藤も同じく「会っておかないと機嫌を損ねるかもしれない」と考えた。

 そんな経緯で信長は芹沢と会っていた。


「お初にお目にかかる。織田信長と申す」


 そこで彼は折り目正しく、礼儀が適った挨拶を見せた。

 芹沢だけではなく、山南もお梅も驚くほどの惚れ惚れとした動作。


「なかなかの名門の出だとお見受けするぜ。出身はどこだ?」

「国は尾張が那古野なごやにて。しかしさほどの名門ではござらん」

名古屋なごやか。いいところじゃねえか。御三家ごさんけのお膝元だ」


 同じ御三家の水戸藩出身の芹沢は上機嫌に「酒、飲むか?」と酒瓶を薦める。

 信長は「儂は下戸げこだが」と言いつつ、芹沢の傍に置かれた盃を取った。


「貴殿の酒ならば、飲まざるを得ない」

「ほう。言うじゃねえか」


 芹沢は珍しく、ほんの少ししか注がなかった。

 山南はここまで芹沢が配慮を見せるとは思わなかった。

 見せるにしてもお梅や水戸派ぐらいだった。

 信長は飲み干したのを見て「あんたは田舎侍と違っているな」と芹沢は笑った。


「ここに来てからおのぼりばかりで辟易していたんだ」

尾州びしゅう出身の儂も十分田舎侍よ。それでいささか苦労した」

「苦労? まあ京ならではのしきたりがあるからな」

「左様。加えてやんごとなき方々は銭ばかり要求する」


 山南はハラハラしながら見守っていた。

 信長が余計なことを言うかもしれない。

 芹沢は気づいていないようだが、信長の顔は真っ赤に染まっている。


「ねえ。あんさん。京の市に遊びに行くんでしょう。もう挨拶が済んだなら行きましょうよ」

「おう? ああ、そうだな。信長さんよ、あんたもいいよな?」


 お梅に甘い芹沢はゆっくりと立ち上がる。

 信長はまたも作法に則って礼をした。

 山南もならって行なう。


「そんじゃ。会えて良かったぜ……おいおい、お梅。そんなに引っ張んなよ!」


 女と乳繰ちちくりながら出ていく芹沢。

 その姿が見えなくなると、信長は「惜しい男だ」と呟いた。


「酒と女に溺れていなければ、一廉の男になれたはずだ」

「信長さん。大丈夫ですか?」

「ああ。酔いが顔に出やすいのだ。あの程度では酔わん」


 それから山南に「根回しは済んだようだな」と言う。


「ええ。これであなたは目付になれるでしょう。しかし、よろしいので?」

「是非もなし。儂はこれでいい」


 山南は一拍おいて「……不思議に思います」と告げた。


「あなたなら壬生浪士組を乗っ取ることができそうだ。それなのに――」

「駄目だ。儂にはもう無理だ」


 信長は赤い顔のまま言葉を紡ぐ。


「本能寺で光秀に裏切られたとき、儂の一生は終わったのだ。そんな男が再び頭をやって、現で生きるなど……滑稽に過ぎん」

「……信長さん」

「今の世を生きる者が、今の世に生まれた者が、今の世を変えることができるのだ。儂の時代は、もう終わった」


 山南は信長が酔っているせいで本音を吐露していると考えた。

 そして確信する。

 目の前の男が、戦国乱世の覇王、第六天魔王と畏れられた――織田信長であると。

 自分でもどうかしていると思うけれど、そう信じざるを得なかった。


「信長さん。私は壬生浪士組でこの世の中を変えてみたいと思う」

「であるか。好きにせい」

「ええ、好きにやらせていただきます――あなたを利用して」


 信長は黙って山南を睨んだ。

 対して山南は信長に微笑んだ。


「あなたの策謀と狡猾さを使って、複雑怪奇な京の都を生き抜いてみます。壬生浪士組と共に」

「……ふひひひ。この織田信長を利用すると来たか……顔に似合わず大胆不敵な男よ!」


 信長はとても愉快そうに――大笑いした。


「ならば儂もおぬしらを利用しよう。この世を楽に生きてやる」

「ええ。お好きにどうぞ……互いにね」

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