目次
ブックマーク
応援する
3
コメント
シェア
通報
10

 下の方にある微かな明かり以外は、何も見えない。


 壁に両手をついて、足元を確かめながら石段を下りる。壁は湿り気を帯びていて、たまに石ではないものに触れるが、真っ暗なので、それが何なのかは確かめようがない。


 ぬるりとした冷たいものは、手が触れると壁から剥がれて落ちた。手の甲を、脚がたくさんある長いものが這う。真後ろで、ぼとり、と水ではない何かが落ちた音がする。


 ——何も見えなくて、良かったのかも知れない。命がかかっていなかったら、こんなところには入らなかっただろうな……。


 石段を半分ほど下りると、急に空気が冷たくなった。下に見える明かりは、うっすらとかすんでいるようだ。


「さむっ!」


 一番下まで下りると、自分の吐く息が白いことに気が付いた。それだけ気温が低いのだろう。さすがに『地下だから』というだけの理由ではなさそうだ。


 僕は明るくなっている空間を、そっとのぞく。


「なんだ……? これ……」


 石の壁に囲まれた部屋の中央には、透明のビニールで囲ってある空間があった。部屋の中は薄暗いが、中に銀色のものがあるのが分かる。


 かたん、と音がした方に目をやると、ランタンのそばに瑠衣が座り込んでいた。


 ランタンの中には、青い光がいくつか舞っている。


「おなか、すいた……」


 瑠衣は僕を見ながら言う。蓋を開けて欲しいようだ。でも、中に入っているのが人間の魂だと分かっている僕が、蓋を開けるわけにはいかない。


 僕は瑠衣の前に片膝をついた。


「ごめんな。お兄ちゃんは、開けてあげられないんだ」


 僕が言うと瑠衣は、ゆっくりとランタンに目をやり、すうっと、姿を消した。もしかすると、麗華のところへ行ったのかも知れない。


 ——紫鬼に見つかるなよ……。


 僕は転がっているランタンを拾い、立ち上がる。


 金属の部分は、綺麗な金色に見えるので、おそらくこれが麗華のランタンだ。


 ガラスの面を顔に近付けると、青い光の玉にある顔が視えた。相変わらず不気味だとは思うが、麗華や瑠衣に対して感じる、あわれむような気持ちは湧いてこない。


 ——何の関係もない人たちの魂が、食事にされようとしているのに、何も感じないなんて……。


 僕は、冷たい人間なのだろうか。


 部屋の隅にランタンを置いてから、ビニールで囲ってある空間へ近付く。


 中を確認しなくても、何となく、そこに何が入っているのかは想像できた。ビニール越しに見えるのは、銀色の大きな箱と、白と黒と赤だ。


 僕はおもむろにビニールをめくり、中へ入った。


 ビニールで囲ってある空間の中に入ると、凍えるように冷たい空気がまとわりつく。息を吸うと、喉の奥に氷の棘が刺さったような痛みを感じた。


 金属で出来た長方形の箱の中は、氷が張っているようだ。


 本当は、今からでも引き返したい。見たくないものがそこにあるのは、いやでも分かる。


 ——別に確かめなくても、いいんじゃないか……?


 そう思ったが、やはり、このままで終わってはいけないと思い直した。麗華の記憶を見た僕が、最後まで確認をしなければいけないような気がしたのだ。


 僕は深呼吸をして、金属で出来た箱を覗き込んだ。


「……っ!」




 箱の中には、子供を胸に抱いた女性が、横たわっていた——。




 子供の頭のすぐ横には、黒い短剣がある。札を貫いた短剣は、女性の左胸に深く突き刺さったままだ。


 氷の中にいる麗華は、まるで眠っているように見える。化粧をしていて顔色が分からないせいか、声をかけたら、目を開けそうな気がした。


 黒のワンピースは、素肌が見えないデザインだ。旦那から暴力を受けていた麗華は、日頃から、あざが見えないような服を選んでいたのかも知れない。


 麗華の胸に抱かれている子供は、顔は見えないが、瑠衣に違いない。


 子供の頭部には、包帯が何重にも巻かれ、半分ほどは赤く染まっている。血の気が失せ、ほおと同じような色になった、小さな唇だけが見えた。


 瑠衣が麗華の腕から落ちないように、包帯で固定されているのは、牧田の精一杯の優しさなのだろうか。


今は、二人が密着したまま凍っていて、氷が溶けない限りは離れることはない。


 ——僕が、ここに遺体があることを話せば、氷は溶かされて、二人は火葬されるんだよな……。


 そうなれば、麗華は二度と、愛しい息子を抱きしめることができない。


 瑠衣も、大好きな母の腕の中へ戻ることは、できなくなってしまう。


 氷の中の二人を見ていると、鼻の奥がつんとして、視界がぼやけた。水滴が氷の上に落ちる度に、胸が苦しくなって行く。


「なんで、こんなことになったんだろうな……」


 語りかけても、返事はない。


 どうなっていれば、二人は幸せに生きることができたのだろうか。麗華の母がこの家を出なければ。麗華があの男と出会わなければ。せめて、早く別れることができていれば。考えても答えは出ない。


 僕は、どうしたらいいのだろうか——。




 瑛斗を守ろうとすれば、麗華と瑠衣を引き離すことになる。


 麗華と瑠衣を守ろうとすれば、瑛斗や御澄宮司の命が危険に晒される。




 瑛斗のことを一番に考えようと決めたはずなのに、麗華と瑠衣の遺体を目の当たりにすると、何が正解なのかが分からなくなってしまった。やはり、見ない方がよかったのかもしれない。


 考えていると、段々と頭の奥が熱くなり、手足の先端は逆に冷えて行った。呼吸が浅くなり、眩暈めまいがする。




 どのくらいの時間が経っただろうか。ぴちゃん、と石段の方で水滴が落ちる音がして、僕は顔を上げた。


 ——これ以上考えても、もう違う答えは出せないや。


 僕は刺すように冷たい空気を、大きく吸い込んだ。


 ここまできても、まだ甘いことを考えてしまう僕を、御澄宮司は怒るだろうか。瑛斗も、迷っている僕に呆れるかも知れない。それでも——。


「やっぱり、こうすることしかできないや」


コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?