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 この感覚を、僕は前にも味わったことがある。


 目の前が暗くなって行くような、嫌な予感がした。からっぽの胃の中から、何かがせり上がってくる。


「社長……。御澄宮司を、僕に紹介してくれたのを……覚えて、いますか?」


「ん? なんで、あんたが……」


 神原社長は、僕を見つめた。呆気に取られたような表情は、怪訝けげんな表情へと変わって行く。


 きっと今、僕の顔は、色を失っているだろう。触らなくても、唇が冷たくなっているのが分かる。


「……実はね。今朝、妙なことがあったんだよ。私は、目覚めは良い方なんだけど、頭が重くて、しばらくは動けなくてね。体調が悪いんだと思って、昼からの出社にしたんだけど……。朝起きた時に、嫌な気配を感じた気がしたんだ。ほんの一瞬だけどね。もしかして、それと何か、関係があるのかね? 私が御澄の坊やを紹介するなんて、よほどの事情があったんだろうよ」


 僕は神原社長に、今までの出来事を全て話した。久しぶりに連絡をしてきた友達が、「家の中に何かがいる」と相談してきたこと。神原社長に何度も反対されながら、僕が、友達の家に棲み着いている『何か』について調べたこと。そして、普通の霊ではなかったこと。僕が神原社長に頼み込んで、御澄宮司を紹介してもらったこと。


 僕が説明をしている間、神原社長は眉間にしわを寄せて、静かに聞いていた。そして僕が話し終わった途端に、大きなため息をついた。


「これは……やられたねぇ。今朝の嫌な気配は間違いなく、その物の怪だろう。あんたの友達の記憶が、抜けていたのと同じように、私の記憶も消されたってことかね。この身体のだるさは、魂の一部でも削られたのか……。私は枕元に護符を置いて寝ているんだけど、そんなものは効かないってことか」


「前に、神原社長に譲ってもらった護符では、効き目が薄かったようです。御澄宮司でさえ、相当厄介なものだ、と言っていましたから」


「なるほどねぇ……。今の人間は便利な生活をしている分、霊力も弱くなっているからね。そんな時の為に、あの坊やは、とっておきのものを持っているはずだけど、それでもダメだということか……」


「あぁ、呪具の刀のことですよね?」


 僕が言うと、神原社長は目を見開いた。


「あんたに呪具を見せたのかい?」


「はい……。見せたというか、呪具から出てきた女性に、斬られましたね……」


「それは、その物の怪が、本当に厄介なものだったということだね……。呪具は、あまり人に見せるものではないんだよ。坊やでも手に負えない時にだけ、出すものなんだ」


「そうだったんですね……」


 僕は自分の左腕に目をやった。僕の左腕には、御澄宮司に渡された呪具の数珠が着いている。これは、人目にさらされてもいいのだろうか。


「しかし、なんで私の記憶まで消したんだろうね? 関係ないような気がするが……」


「分かりません……」


 麗華が、誰かの夢の中に入れる程、力を取り戻したということだろうか。紫鬼に斬られてから、まだ一週間くらいしか経っていない。たしかに、遺体を見つけない限り、完全に祓うことはできないかも知れない、とは聞いていたが、早すぎる。


「まぁ、このことは、私から御澄の坊やに言っておくから。あんたは、しっかり休憩しなさい」


 神原社長は僕の肩を、ぽん、と叩いて歩き出す。


 事務所に向かう神原社長の足取りは重い。魂を削られたのかも、という神原社長の予想は、当たっているのかも知れない。と思った。


 そういえば瑛斗も、物置部屋で意識をなくした後、しばらくの間は目覚めなかった。記憶を消されると、一時的に身体がつらくなるのだろう。


「——神原社長!」


「ん?」


「巻き込んでしまって、すみませんでした!」


 僕が言うと、神原社長はなぜか、くすりと笑う。


「また、情けない顔をして。覚えていないことを謝られても困るんだけど。まぁ、これを『貸し』として、これからも、こき使ってやろうかねぇ」


 神原社長は、手をひらひらとさせながら、事務所へ向かった。


「はい……」


 こんな時でも笑ってくれる、神原社長の優しさがつらくなり、ぎゅっと拳を握りしめた。僕が相談しなければ、神原社長が被害に遭うことはなかったのだ。


 僕は駐車場に駐めてある、自分の車に乗り込んだ。銀行帰りにコンビニで弁当を買ったが、なんとなく、食べる気がしない。


 神原社長の記憶を消したのが、本当に麗華なのだとしたら、何の為に神原社長の記憶を消したのだろうか。麗華の邪魔をしている僕や、御澄宮司の記憶を消すのなら分かるが、神原社長の記憶を消す理由が分からない。


 ——いや。そもそも、この世のものではないものの気持ちを理解しようとするのが、間違っているのか……。


『もしまた、あの物の怪が現れたら、数珠をつけた手で、物の怪を祓ってください』


 御澄宮司の言葉が、脳裏によみがえる。


 僕はおもむろに車のシートを倒し、左手を天井にかざした。手首に着いている濃い紫色の数珠が揺れている。


 ——この手で麗華に触れたら、麗華は、消える……。


 僕は昼休憩が終わるまで、淡い光を放つ数珠を、ただながめていた——。


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