「はい、あげる」
出社すると、先輩から伝票の束を渡された。
経理の仕事をしている中川先輩は、三十代後半の男性だ。ぽっこりと出た腹が、実年齢よりも老けて見える原因になっているように感じる。そんな中川先輩が、にこやかに笑う。
「今から、これ全部計算してさ、銀行へ行って来てよ」
中川先輩は
僕は、手に持っている伝票に目をやった。文庫本一冊分くらいありそうなサイズ感だ。伝票は薄い紙のはずなのに、一体、何枚あるのだろうか。朝っぱらからこんなに仕事を振られるなんて、嫌がらせとしか思えない。
僕が呆然と立ち尽くしていると、中川先輩は「早く、早く」と笑顔で急かす。
——やっぱり、嫌がらせか……。
僕は経理といっても、先輩の下について勉強をしているようなものなので、中川先輩の指示に従うしかないのだ。
僕はため息をつきながら、自分の席へ座る。
「おい、一ノ瀬。ため息はよくないぞ。仕事なんだから」
「その仕事を、こんなに溜め込んだのは、先輩ですよね?」
「俺も忙しいんだよ。あ。それ、全部立替だから、銀行で金を下ろしたら、分けて封筒に入れておいて。昼までにな」
「はぁ? 昼まで?」
思わず、眉間に力が入った。
「お前なぁ、先輩に『はぁ?』とか言うなよ。反抗期か? もう、今日返すって、みんなに言っちゃったんだよ。がんばれ!」
もやもやとしていた気持ちは、苛立ちに変わった。
「溜める前に、早く言ってくださいよ!」
「だってお前、機嫌が悪かったじゃないか。頼みづらかったんだよ」
「別に、機嫌悪くなんか……」
——そういえば、瑛斗のことで頭がいっぱいだった気がする。仕事中のことなんて、全く覚えてないや。
それが、他の人たちには、不機嫌なように見えたのかも知れない。
「とにかく! 仕事が溜まってしまう前に、早く言ってくださいね」
「はいよ〜」
中川先輩は気の抜けた声で返す。
——全然、反省してないじゃないか!
思わず舌打ちをしそうになったが、会社なので我慢した。
僕はどちらかというと穏やかな方だとは思うが、なぜか中川先輩に対しては、苛ついてしまうことが多い。中川先輩の方が一回り年上だが、時には年下のように感じることもあった。なんだか、誰かに似ているような気がする。
——あぁ、慎也だ。慎也に似ているから、イライラするんだ。
適当なところも、反省をしないところも、そっくりだ。ただ、それが分かったところで仕事は無くならない。僕はもう一度、大きなため息をついてから、仕事に取り組む。
領収書と振替伝票の金額が、間違っていないかどうかを見比べて、次は、計算が合っているかどうかを確かめる。間違いがなければ、全ての伝票の合計金額がいくらになるかを計算する。たかが銀行へ行って、金を下ろしてくるだけと言っても、伝票の量が多ければ、時間が掛かるのだ。
それなのに中川先輩は、いつも山のように伝票を溜めてから、僕に渡してくる。僕じゃなくても、苛ついてしまうはずだ。
——はぁ……。もう、考えるのは止めよう。
僕は中川先輩の存在を脳内から追い払い、作業に集中した。
伝票の処理が終わり、銀行へ行って、戻ってくると、事務所の同僚たちは昼休憩中だった。
「おぉ、お疲れ!」
中川先輩が、コーヒーを片手に手を振る。おそらく、もう食事を済ませて、コーヒーを飲んでいるのだろう。
「……僕に仕事を押し付けておいて、先に休憩するんですね……」
「押し付けるなんて、酷いことを言うなぁ。手伝おうと思って、先に食べたんだよ」
「手伝う? 元は、先輩が溜めた仕事なんですけどね」
僕は冷めた視線を先輩に向けた。
「はいはい、分かったよ。後はやるから、休憩に行ってきなさいな」
「えぇ、そうします」
僕は、銀行から下ろしてきた金が入っている手提げ袋を、先輩の机の上に置いた。
——大量にある領収書と振替伝票の金額が、間違っていないかを確認するのが、一番面倒臭い仕事なんだけどね。先輩は、いつも楽な仕事だけをやるんだから。
心の中で
——そうだ、お礼を言っておかないと。
最近の社長は外回りが多かったので、ちゃんとお礼を言うことができていなかった。神原社長が御澄宮司を紹介してくれなかったら、瑛斗はどうなっていたか分からない。
僕は駐車場へ向かった。
「神原社長!」
僕が小走りで駆け寄ると、神原社長は笑顔で車から降りてきた。
「今日は久しぶりに、明るい顔をしているじゃないか」
「さっき中川先輩にも、同じようなことを言われたんですけど。僕が機嫌が悪そうにしていたって」
「そりゃあそうだよ。ずっと、しかめっ面をしていたからね」
「そうなんですね……。自分では、普通にしていたつもりだったんですけど」
「みんなが、話しかけづらいって、言っていたよ。まぁ、元気になったなら良かったけど、何か嫌なことでもあったのかい?」
——……?
神原社長の言葉に、小さな違和感を覚えた。
「あの……。嫌なことというか、友達の家に霊がいる件で悩んでいたので。そのことで、社長に……ちゃんとお礼を言っていなかったなと、思って……」
「私に?」
神原社長は、きょとんとした顔をしている。
——まさか……。