飲み込まれてしまいそうな濃藍の空が、わずかに白んできた。
嫌なことばかりが脳裏を巡り、ほとんど眠れていない。頭を冷やすためにベランダで星空を眺めていたら、結局、朝方になってしまった。
僕は
——もう、六時か……。
毎朝目覚まし時計をセットしている時間と一緒だ。なかなか目が覚めない僕は、早めに起きないと、仕事に間に合わなくなる。六時に目覚まし時計が鳴ったとしても、準備を終えて、家を出なければいけない八時に、間に合わないことがあるのだ。この時間に、はっきりと目が覚めているのは、本当に珍しい。
でも今日は、仕事に行く気にはなれない。まだ麗華の記憶に引きずられているのだろうか。少しでも気を抜くと、また涙が溢れそうになる。
遠くの空を
画面を見ると『神原社長』と表示されている。こんなに早い時間に、電話がかかってきたのは初めてだ。
——何か、あったのかな……。
僕は戸惑いながらも電話に出た。
「はい」
『あぁ、おはよう。もう起きていたみたいだね』
「夜中に目が覚めて、眠れなくなったんです」
『なるほどね。でも、ちょうど良かったよ。霊媒師をやっている親戚と連絡が取れてね。手を貸してくれると言ってるんだ』
「本当ですか!」
『あぁ。とりあえず、あんたの友達を神社まで連れてこい、と言っていたよ。普通の霊ではないのなら、先に話を聞いておきたいんだとさ』
「神社……?」
『そうだよ。霊媒師の仕事は、表立っては、やっていないんだよ。普段は大きな神社の宮司をやっていて、必要がある時だけ、霊媒師の仕事をしているのさ』
「そうなんですね。でも……起きるかな」
『お友達は、まだ目覚めていないのかい?』
「はい。まだ、奥さんからの連絡がきていないので、たぶん……。でも、早く行った方がいいと思うので、無理矢理にでも起こした方がいいですよね……」
『まぁ、そうだね……。ところで、なんだか今日は元気がないねぇ。朝だからってわけでもなさそうだけど』
——やっぱり、神原社長は気付くんだな。でも、夢のことについては、話したくない。
「いえ……。ちょっと寝不足なだけです。大丈夫です」
『ふぅん、そうかい。でも、気分が落ち込んでいると、悪いものに取り憑かれやすくなるからね。気をつけるんだよ? それから、今日休む分は、しっかり給料から引いておくから、遠慮なく行っておいで』
「はい、すみません。ありがとうございます」
神原社長と話をしたおかげか、少しだけ気分が落ち着いたような気がした。神原社長は優しいだけでなく、普通なら言いづらいようなことでも、はっきりと言ってくれるので、僕はそれが心地良いのだと思う。
通話を終えた僕は、瑛斗の奥さんに電話をかける。一回ほど呼び出し音が鳴っただけで、奥さんが電話に出た。
——随分と早いな。
『あ! もしもし、一ノ瀬さん! さっき、主人が目を覚ましたんです!』
「そうですか。良かった!」
どうやら、最悪の事態は免れたようだ。
『はい! ちょうど今、電話をかけようと思っていたんです。それに今は、普通に会話ができる状態で。あの護符が、効いたのかも知れません』
「そうですね。本当に、良かった。僕の方も今、霊媒師の方に協力してもらえると連絡があったんですけど、瑛斗は外に出られそうですか? 一度、話をしに行かないといけないんです」
『大丈夫だと思います。ご飯も食べると言っているので、体調は悪くないと思います。でも、良かったぁ……。私、昨日はもう、どうなることかと……』
奥さんは、今にも泣き出しそうな声で言う。
「そうですよね。僕も、そう思いました」
瑛斗が目覚めなかったので、何もかも、もう手遅れなのではないか、と恐怖を感じた。おそらく奥さんは、僕なんかよりも、もっと恐ろしい思いをしただろう。
『あとは、引越しの件を、早くなんとかしないといけないですよね。たとえ、霊媒師の方が解決してくださったとしても、この部屋にはもう、住みたくありませんから』
奥さんの声は、明るく力強い。
「僕も、その方がいいと思います」
——あんな事があった部屋だ。人が住むような場所じゃない。
一刻も早く、あの部屋からは離れた方が良いに決まっている。
「準備を終えたら車で迎えに行きますので、瑛斗に、外へ出てくるように、言ってもらってもいいですか?」
『はい、分かりました。よろしくお願いします』
——そう。これでいいんだ。
霊媒師に、麗華と瑠衣を祓ってもらって、瑛斗と家族は引っ越しをする。そうすれば、もう怯えることもない。普通の生活を取り戻せるんだ。それが一番良いに決まっている。
絶対に……多分。これで良いんだ。
良い……はずなんだ——。