——何だろう……身体中が痛い……。
子供の泣き声が聞こえる。
男の怒鳴り声も。
『もうやめて!』
女性が叫んでいる。
ここはどこだ……?
窓の外の景色には見覚えがある。
『うるせぇんだよ! ガキを黙らせろ!』
体格のいい男が、椅子を蹴り飛ばした。
何なんだ、あの男は。お前が黙れ!
僕の視線が、泣いている子供に行った。
あれ? この子って……。麗華の息子だ。
なんでここにいるんだ。
痛い! 背中が……。
え? あの男に蹴られた?
振り向くと、男の拳が飛んできた。
痛っ! 何なんだ、こいつ!
『やめて……』
女性が泣き出したようだ。
子供の泣き声も、大きくなって行く。
そうだよな、怖いよな……。
『ギャーギャー
男は壁にグラスを投げつける。
はぁ? お前が怒鳴るからだろーが!
かわいそうに……。早くここから逃げるんだ。
『うるせぇ!』
男が、大きなガラスの灰皿を手に取った。
え……? 何、するんだ……?
まさか——。
男が瑠衣に近付き、灰皿を振り上げる。
やめろ!
『いやあぁあ!』
女性の叫び声が響き渡る。
灰皿が振り下ろされ、思わず目を
ごっ……
鈍い音がして、身体がびくりと跳ねた。
心臓の音が、頭の中で聞こえる。
身体が震えている。
絶望的な光景が、脳裏に浮かんだ。
子供の泣き声が聞こえなくなった——。
僕はゆっくり、ゆっくり、目を開ける。
目の前は、真っ赤だ。
倒れている瑠衣と、目が合った。
殴られた方の顔は、半分潰れている。
首は、潰れた顔の反対側へ曲がっていた。
感情のなくなった暗い目が、僕を見つめる。
わああぁあ!
『あぁああぁ!』
身体中が熱くなって、視界がぼやけた。
心臓の音が早くなって行く。
恐怖じゃない。これは怒りだ。
僕は走り出した。真っ直ぐに台所へ向かう。
視界がぼやける中、包丁だけが見えた。
その包丁を乱暴に掴む。
『瑠衣! 瑠衣! 瑠衣!』
頭の中に、女性の声が響く。
僕は包丁を持つ手に、力を込めた。
『あ゛あぁぁああ゛!』
唸るような叫び声と共に、僕はまた走る。
真っ白だった男のシャツには赤が見えた。
手に持っているガラスの灰皿も、赤い。
男が大きな口を開けて、顔を引きつらせた。
もう、お前の顔は見たくない!
消えろ! 消えろ! みんな消えてしまえ!
ドン!
音がして、身体に衝撃を受けた。
白かった視界は、赤に染まって行く。
手に痛みを感じたが、構わずに力を込めた。
温かいものが、両手に
それと同時に、生臭いにおいが立ちのぼった。
男が、僕の肩と頭に爪を立てる。
僕に触るな! 早く死ね!
もう一度、全身に力を入れて包丁を押す。
男の力が弱くなり、後ろに向かって倒れた。
はぁ はぁ はぁ
激しい息遣いだけが、部屋の中に響く。
動かなくなった男を見下ろす。感情はない。
次第に、身体の熱は落ち着いていった。
また、視界はぼやけていく。
『瑠衣……』
女性のすすり泣く声がする。
僕は、瑠衣の前に座り込んだ。
床についた手の上に、赤い水滴が落ちた。
ぼやけて見えづらいが、手が小さく見える。
胸が締め付けられ、上手く呼吸ができない。
『待ってて……』
女性の絞り出すような声が聞こえた。
僕は、ふらりと立ち上がる。
鏡台の引き出しを開けると、箱が見えた。
木で出来た箱だ。
箱には赤い札が貼ってある。
黒い文字は、漢字に似ているが読めない。
僕は札を破り捨てた。
中には見覚えのある、ガラスの入れ物。
アンティークのランタンだ。
僕はそれを取り出し、
数え切れないほどの、白い札が入っている。
赤黒い文字は、血が乾いた色に見えた。
また鏡台の、別の引き出しを開ける。
中にあった物を、全部床にぶちまけた。
足元の方に転がった、真っ黒い短剣。
僕はそれを拾い上げ、カバーを取る。
ギラリと光る刃に、目元が映った。
美しいが、獣のような鋭い目。
えっ……。これは、誰だ……?
顔は、赤く
この目は……麗華?
僕はランタンの中に、短剣を突き刺す。
短剣には、何枚もの札が刺さった。
札からは、赤い
そして僕は、短剣の刃先を自分へ向けた。
両手が小刻みに震えているのが見える。
……え? 何を、するんだ……?
僕は短剣を持つ手に、グッと力を入れる。
やめろ! やめてくれ——。