奥さんの顔は、恐怖の色に染まっている。
「覚えていなかった……? それって、いつ頃の話ですか……?」
「たしか、一週間ほど前です」
「一週間……」
——二人で食事に行った時には、もう奥さんと話をしていたってことか。
「しっかりと話し合ったのに、寝て起きたら、全部忘れてしまっていたと」
「そうなんです……! 別の不動産会社にも行ってみようと話したので、不動産会社に行くのはいつにするか、と訊いたら、「何のこと?」って……。私、びっくりしてしまって。紙風船のこともあったので、怖くてそれ以上はもう、何も言えませんでした」
間違いなく、麗華が何かをしたはずだ。でも、操るような力はないと言っていた。何をしたのだろうか。
「その時の瑛斗は、他に何か、いつもと違うところはありませんでしたか?」
「違う、というか……顔色が悪いな、とは思いました。
眠いのなら、夢の中に麗華がいたせいで、眠れていなかったのだろうか。でもそれだけでは、記憶が消えた理由にはならない。
「やっぱり、幽霊のせいでしょうか。そのせいで、主人はおかしくなってしまったんでしょうか」
奥さんの手の震えが大きくなった。
——まだ大丈夫だと思いたいけど……。
奥さんはもう、霊の存在を認識しているし、瑛斗に護符を持たせるのを、協力してもらった方がいいのかも知れない。
「そうならないように、今日はこれを持って来たんですけど……」
僕は、奥さんの目の前に護符を置いた。
「これは、魔除けの護符なんです。肌身離さずに持っていれば、瑛斗を守ってくれるはずです」
「魔除け……。主人は、元に戻るんでしょうか」
「それは、瑛斗が目を覚ましてからでないと、分からないんですけど……。さっき、この家にいる霊に対して使ったら効いたので、少なくとも、これ以上酷くはならないと思います」
「分かりました。これをずっと、持たせておいたらいいんですね。……どうしようかな……。布で小さな袋を作って、首に掛けておけばいいですかね」
「すごく、いい考えだと思います。作ってもらえますか?」
「はい。すぐに作ります。……でも……」
奥さん護符を見つめて、表情を曇らせた。
「どうか、しましたか?」
「あの、これって……一つしかないんですよね? 結衣は、どうなるんでしょうか。結衣にも、何かが取り憑いているんじゃ……」
「あぁ。今のところは取り憑いてはいないので、大丈夫です。ただ娘さんと遊んでいるだけなので。ちなみに今は、その霊はここにはいません。瑛斗からは、娘さんの雰囲気が変わったり、体調が悪くなったりはしていないと聞きましたが、どうですか?」
「そうですね。特に変わったことはないです。変なものに取り憑かれているわけではないのなら……少しだけ、安心しました」
こわばっていた表情が、少しだけ和らいだように見えた。しかし、魔除けの護符だけでは、問題は解決しない——。
「……よその家のことに口を出すのは、どうかと思うんですけど……。引っ越しは、出来そうですか?」
「そう、ですね……。急いだ方が、いいってことですよね?」
奥さんは僕を真っ直ぐに見た。怖がらせてしまうかも知れないが、この人なら、ちゃんと受け止めることができるだろう。
「……はい。できる限り、急いだ方がいいです。祓えたわけではないので、また瑛斗に近付いてくると思います」
奥さんの口元に、グッと力が入ったのが分かった。
「……分かりました。私もパートの時間を増やして、何とかしようと思っていたんですけど……。でも、急いだ方がいいのなら。もう、私の方の家に頭を下げてでも、何とかお金を借りようと思います。……この家から出てしまえば、主人も結衣も、大丈夫なんですよね?」
「はい。僕も霊を祓える人を捜すので、奥さんは、早く引っ越せるように頑張ってください」
「ありがとうございます。よろしくお願いします」
奥さんの目は潤んでいたが、涙は流さなかった。
——家には霊が棲みついているし、瑛斗はあんな状態になってしまって、不安だろうに。強い人だな……。
引越しの方は何とかなりそうな気がするから、僕はもう一度、神原社長に相談してみよう。できれば、あの護符を書いた人を紹介してもらいたい——。
ふと、奥さんの後ろにある写真に目が行った。
幼稚園の前に立っている、娘の写真だ。
写真の下の方には、文字が書いてある。
『
「なっ……!」
僕は思わず、机に両手を突いて、勢いよく立ち上がった。
——なんで、瑛斗の娘と、あの女性の息子が、一緒に写ってるんだ!
「あの、写真の男の子って……!」
奥さんは目を丸くして、僕を見上げていた。
「えっ、あぁ。あの子は、幼稚園で結衣と仲良くしてくれていた子で。……でも突然、幼稚園に来なくなってしまったんです。園の方も理由が分からないと言うし、今はどうしているのか……」
——そういえば、瑛斗がそんな話をしていた気がする。あの男の子が幼稚園へ行かなくなったのは、死んでしまったからだ。
瑛斗と母親の会話が、脳裏によみがえった。
『一番仲が良かった子が幼稚園に来なくなった時は、そこからしばらくは行きたがらなかったけどな。でも、一週間もしない内にすっかり元に戻ったよ。もう忘れたんだろう。今は楽しそうに行ってるよ』
『そう。結衣ちゃんはまだ四歳だし、子供ってそんなものよね』
——違う。元気になったのは、忘れたからじゃない。今も、そばにいるからだ……!