一階の照明はチカチカと点滅していて、昼間に来た時よりも、さらに古びた建物に見える。いくつかの部屋には電気がついているようだが、足元が見えない程、暗い。
車を降りると、微かに耳鳴りがした。明るい時間には、駐車場では耳鳴りはしなかったはずだ。人ならざるものは、夜になると力が増すのだろうか。
——瑛斗は、会ってくれるかな……。
不安を抱えたまま、僕はチャイムを押した。
「はい」
女性の声が聞こえて、玄関のドアが開いた。出てきたのは小柄な女性で、僕の顔をじっと見つめている。髪は茶色で、肩くらいまでの長さだ。
——この人が、瑛斗の奥さんか。
もっと早く会っていれば、今と状況は違っていたのだろうか。少なくとも、街中で見かけた時には、異常な事態に気付けていたと思う。
「あの……。僕は瑛斗の友達で、
「あなたが一ノ瀬さんですか。はじめまして、妻の
「はい、そうなんです。それで……瑛斗は家にいますか?」
「えぇ、いますよ。でも……」
「何かあったんですか?」
「実は……。昨日からちょっと、様子がおかしいんです。話しかけても上の空で、目も合わせてくれなくて……。今は、一人で部屋にこもっているんです。一応声をかけてみますが、出てくるかどうかは、分からないです」
奥さんは、戸惑いの表情を浮かべている。
瑛斗が今置かれている状況を、説明してあげたいという気持ちはあるが、それは簡単なことではない。今、初めて会った人間に、「旦那さんは、家にいる霊に、取り憑かれたのかも知れません」なんて言われても、信じる人はいない。頭がおかしいと思われて、瑛斗に会えなくなるのも困る。
「じゃあ、僕が声をかけてみてもいいですか?」
「はい。……でも本当に、答えるかどうかは、分かりませんよ?」
「大丈夫です」
「分かりました。では……どうぞ」
奥さんがスリッパを出してくれたので、僕は玄関の中に足を踏み入れる。
前回と同じように、耳鳴りと頭痛は激しくなり、眩暈がした。押さえつけられるような圧迫感も相変わらずで、僕は耐え切れずにふらついてしまった。
「あっ。大丈夫ですか?」
「あぁ、ちょっとふらついただけです。すみません」
僕は奥さんにバレないように、深呼吸をした。
「主人がいるのは、奥の部屋です」
奥さんはスタスタと歩いて行く。
——奥さんも、何ともないんだな。
この家に住んでいる人間には、影響が出ないようになっているのだろうか。いくら僕に霊感があると言っても、こんなに差が出るのは、おかしい気がする。瑛斗や家族にも、多少なりとも影響が出るはずなのに——。
廊下の先を見ると、ぐにゃりと視界が歪む。僕は倒れないように、壁に手をつきながら、瑛斗がいる部屋へ向かう。
「ここです」
奥さんに案内された部屋のドアを、コンコン、とノックする。
「瑛斗。話がしたいんだ。開けてくれ」
声をかけても、瑛斗は何も答えない。ドアノブを回してみたが、鍵が掛かっているようだ。
「なぁ、頼むから開けてくれ」
今度は拳を握って、強めにドアを叩く。それでも何の返事もない。
「すみません。やっぱり、だめみたいですね……」
横にいる奥さんが、申し訳なさそうに言う。
「そうですね……。さっき、昨日から様子がおかしい、と言っていましたよね。正確にはいつ頃ですか?」
「昨日の夜です。私が、二十二時頃にパートから帰って来た時にはもう、今のような状態でした」
——僕がここを出てから、奥さんが帰ってくるまでに、一体何があったんだろう。四〜五時間くらいだよな……。
「そうですか……。すみません、ここの鍵はありますか?」
「あぁ、はい。ありますけど……。無理やり開けて、大丈夫でしょうか」
「僕が一人で開けるので、心配しないでください。それと、できれば瑛斗と二人きりで、話をしたいんですけど……」
「分かりました。では、少し出てきてもいいでしょうか? コンビニで支払いをしてこないといけなくて。そんなに時間はかからないと思いますが……」
その方が僕にとっても都合がいい。あの麗華という女性が現れる可能性もある。奥さんや娘はいない方がいい。
「大丈夫ですよ。……もしかしたら揉めるかも知れないので、ゆっくりでお願いします」
「はい。すみません」
奥さんは僕に鍵を渡し、娘を抱いて外へ出た。
——これでもう、遠慮する必要はないな。
僕は鍵を開け、そっとドアを開いた。
「瑛斗……」
真っ暗な部屋の真ん中に、瑛斗が座っている。反対側を向いて座っているので、どんな表情なのかは分からない。
部屋の中はタンスや、衣装ケースが置かれている。物置部屋だろうか。
「何やってるんだよ、こんなところで。昨日、僕が帰った後に、何があったんだ?」
「……」
瑛斗は膝を抱いて座っている。声をかけても、見向きもしない。瑛斗がこんな状態になっているのは、間違いなく、あの麗華という女性のせいだと思う。
でも、なぜ僕や奥さんを避けるようになったのだろうか。その理由を確かめたい。何かに取り憑かれて、性格が変わった人を見たことはあるが、あまりにも急すぎる。
「さっきは、放っておいてくれって言われたけどさ。それは無理だよ。瑛斗だって、早くこの家から出たいって言っていたじゃないか。何があったのか、ちゃんと話してくれ。頼むから」
僕は、動こうとしない瑛斗の肩を掴んだ。そして、顔を見ようとすると——。
瑛斗の身体が、ぐらりと傾いた。
「えっ……?」
時間の流れが、遅くなったように感じた。瑛斗はゆっくりと床に倒れ込み、身動き一つしない。僕は一瞬、頭の中が真っ白になった。
「瑛斗? どうしたんだよ……」
座って肩を揺すっても、瑛斗はぐったりと横たわり、何の反応もない。不安になった僕は、彼の口元に手をかざした。すると、微かな風を感じる。
——もしかして、寝ているのか? 座ったままで……?
壁に寄りかかっているならまだ分かる気もするが、座ったままで、揺すられても起きないほど、熟睡できるものだろうか。
何一つ状況が飲み込めない僕は、ただ呆然と、瑛斗の顔を見つめ続けた——。