朝になり、出勤すると、神原社長の車が目に入った。
——良かった! 今日は早く来てる!
僕は小走りで事務所へ入り、社長室のドアを乱暴に開けた。
「社長!」
自分でも驚くほどの大きな声で言うと、椅子から立ちあがろうとしていた神原社長は、目を丸くした。
「びっくりするじゃないか! 心臓が止まるかと思ったよ」
「すみません。ちょっと……間違えました。あの、相談があるんですけど、いいですか」
すると、神原社長は顔をしかめた。
「んんっ? あんた、またお友達に会ったね! あれほど関わるなと言ったのに!」
「はい! 会いました!」
もう怒られることは覚悟していたので、はっきりと答えた。すると、意外にも神原社長は、困惑したような表情を浮かべている。
はっきりと答えたのが、功を奏したのだろうか。僕もできることなら、怒られたくはない。
「……とりあえず、座りなさい」
神原社長がソファーに座ったので、僕も社長の向かい側に座った。
「それで? 言い訳を聞こうか」
腕を組んで、少し首を傾げながら
「社長に言われた意味は、ちゃんと理解しています。でも、大事な友達だから、なんとかしたくて……。友達の部屋に、前はどんな人が住んでいたのかを、調べようと思ったんです。それから……どんな理由で死んだのかを、知りたくて。それで、近所を歩き回っていたら、その……」
「見つかったのかい?」
ふうっ、と大きなため息が聞こえた。
「……はい。それで、家の中を視て欲しいと言われまして。まぁ、断らないといけなかったのは、分かっているんですけど……」
「断り切れずに、家の中にまで入ったと」
「そ、そうですね……。でも、行ったからこそ、分かったことはあります! 娘が、家に取り憑いている霊と、会話をしていました。姿は視えなかったんですけど、娘の目の前には何かがいて、一緒に遊んでいるようでした。友達の、気のせいじゃなかったんです。それに、家の中の空気が、変な感じがしたんですよね」
「変?」
神原社長は目を細め、首を傾げる。
「ただ何かの気配がするだけじゃなくて、なんて言うか……別の空間に閉じ込められた、みたいな感じでした。空気が重かったんです。それに、冷たいものが身体に
「家に棲み着いているというよりは——家の中が、その『何か』のテリトリーみたいなもの、ってことかねぇ?」
「そうかも知れません。それと多分、その『何か』に会いました」
僕が言うと神原社長は、口を半開きにして、眉間に皺を寄せた。驚いているようだ。そして両手を机の上に、バンっと叩きつけた。
「そっちの話が先だろう! どうりで、禍々しい
「あぁ、でも。友達の部屋で出会したわけじゃないんです。夢の中で、なんですけど……なんだかあれは、普通の夢じゃなかったような気がします。生きている人間が、そのまま夢に入って来たような感覚で、触られた感触も、甘い匂いがしたのも、全部覚えているんです。怖いけど、すごく綺麗な女の人でした」
「ふうん……。やっぱり女か」
神原社長は、前のめりになっていた身体を、ゆっくりと元に戻す。僕は何も聞かされていないが、社長は『やっぱり』という言葉を使った。霊感が強い社長は、何か、思い当たる節があったのだろうか。
「なんていうか、お友達は厄介なものに好かれちまったね」
神原社長は、目線を下げたままで言った。
「はい……。僕でも、あれが普通の霊とは違うと分かりました。霊体のはずなのに、生身の身体があるような感じがするんです。それに、触られたら一気に力が抜けて……。あの時は分からなかったんですけど、もしかしたら、魂を抜かれかけていたのかな、と思って」
ハハ、と笑ってみたが、神原社長は表情を一切変えない。
「おそらく、そうだろうよ」
「えぇ……」
否定はしてくれないようだ。
「その女と、話はしたのかい?」
「あ、はい。邪魔をするな、と言われました。それと、僕の友達のことを、『旦那さま』だと。子供の父親が欲しいみたいです」
「なるほどね……」
神原社長は腕組みをして、深く考え込んでいる様子だ。眉間の皺も、さらに深くなったように見える。
「しかし、妙な感じだね……」
「何がですか?」
「そんなに強い力を持っているのなら、さっさと自分のものにしてしまえばいいのに。なんでそうしないんだろうね」
「え……?」
「だってそうだろう? 取り憑いて殺すなり、家に閉じ込めるなり、すればいいじゃないか。……しないというよりは、まだできないのかも知れないねぇ……」
「まだって、どういうことですか……?」
「それは分からないけど——。たとえば、災いが起こる時なんかは、何かを壊したり、禁足地に足を踏み入れたりした時が多いだろう?」
「はい」
「それと同じように、強い力を使う為の制約、みたいなものがあるのかも知れない。その条件がまだ揃っていないから、あんたのお友達を、完全に自分のものに出来ないんだよ」
「何なんですかね……その、条件って……」
「さあねぇ。——でも。もしまた、あんたの前にその女が現れたら、返事には気をつけな。それから、何かを受け取ったりしちゃあいけないよ。何が条件か、分からないんだから。もし破れば、今度はあんたが泣くことになるからね」
社長に鋭い視線を向けられると、ぞわりと全身の毛が逆立った。社長が本気で言っているのが分かる。僕は自分が思っているよりも、危険なことに足を突っ込んでいるのかも知れない。
やれやれ、と言いながら、神原社長は立ち上がる。そして、奥の棚から白いものを取り出した。
「これは、名のある霊媒師に書いてもらった
手のひらに収まる程の小さな白い札には、朱色で、文字か模様かよく分からないものが書いてある。
——こんな紙切れが、本当に効くのかな……。
簡単に握りつぶせそうな紙の札は、あまりにも頼りなく感じる。それでも今は、試せることは何でもやってみるしかない。
「ありがとうございます。必ず、渡します」
護符を受け取ると、何となく、身体が軽くなったような気がした——。