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 僕は、三人しかいないはずの室内を見まわした。


「……そうだよ。ふふ……」


 後ろから、つぶやくような、可愛らしい声が聞こえた。


 僕がそちらに目をやると、娘の口が動いている。誰かに呼ばれたような気がしたのも、娘の声だったのかも知れない。娘は、おもちゃの食器やケーキなどを並べて、ままごとをしているようだ。


「……」


「いいよ」


「……」


「ちがうよ、こっちだよ」


「……」


「ありがと。じゃあ、これとこれ、どっちがいい?」


 立ち去ろうとしていた僕は、娘の言葉が気になり、耳を澄ませた。なんとなく、独り言ではなく、それが会話のように聞こえたからだ。


「……」


「ふふ、そうだよ。さっきも言ったでしょ」


「……」


「わかってるよぉ。ふふふ」


  ——やっぱり、会話に聞こえる。誰と、話しているんだ……? 


 一気に全身の毛が逆立った。


 娘の周辺に目をらしたが、何も視えない。しかし、娘の前に何かがいる気配だけは感じて、背筋を冷たいものがい上がる。もし、何かがいるとすれば、それは、あの長い髪の女性が抱いていた子供だろう。


 僕は確かめるために、娘の横に膝をつく——。


 ビシビシッ! 突然、壁に亀裂が入ったような音がした。


「うわっ!」


 ラップ音にしては、随分と大きな音だ。娘に話しかけるな、とでも言いたいのだろうか。


 ——だから、僕だけ体調が悪くなったのかな。


 執着心が強いものは、少し厄介だ。それなのに、取り憑いているわけではなさそうなのは、なぜなのだろう。


 壁に亀裂が入るような音は、まだ続いている。しかし、いくら大きな音がしていても、瑛斗や娘は何の反応もしない。家鳴りではないので、二人には聞こえないのだろうか。


 そうだとしたら、これは僕への警告だ。やはり僕は、歓迎されていないらしい。


「蒼汰、何か分かった?」


 瑛斗が不安げな表情で、部屋をのぞき込む。


「あー……。ちょっと、外で話そう」


 僕が小さな声で言うと、瑛斗は何かを察したのか、黙ったままでうなずいた。


 廊下へ出た僕は、大きく息を吸う。


 すると、それまで感じていた身体の不調が、少しだけ和らいだ気がした。頭痛と耳鳴りは相変わらずだが、これはもう、マンションから出ないことには、どうにもならないだろう。


「それで、何か分かった?」


 瑛斗に訊かれたが、僕はどう答えるかを、少し迷った。


 まだ何の解決策もないのに全てを話しても、瑛斗が余計に不安になるだけのような気がする。かといって「何でもない」は、もう通用しない。娘が何もない場所に話しかけるのは、瑛斗も知っていることなのだから、とりあえずそれだけを話しておけばいいだろう。


「全部の部屋を確認したけど、今は何も視えなかった。でも……。やっぱり、結衣ちゃんは、何かと会話をしているみたいだ」


「そう……だよな。他の子も、一人で喋りながら遊んでいるのを見かけることはあるけど、結衣の場合はちょっと、違うよな……」


「うん。さっき、僕もそばで聞いていたんだけど、完全に会話が成り立っていた。結衣ちゃんの目の前にも、何かがいる気配を感じたから、気のせいじゃないよ」


 僕が言うと、瑛斗は視線を落として、腕をさすった。理解ができないものに、恐怖を感じているのだろう。


「でも、結衣ちゃんに対して、悪意があるようには思えなかったから、ただ、遊んでいるだけなんだと思う。今のところは、体調も悪くないんだろ?」


「あぁ。別に、前と変わらないよ」


「そうか。だったら今は、そこまで気にしなくてもいいと思う。だけど、引っ越しをする前に、少しでも様子がおかしくなったら、先に結衣ちゃんだけでも、実家に避難させた方がいいと思うよ」


「……分かった。……でも、情けないよな」


 瑛斗はため息混じりに笑った。


「自分の娘の身に、悪いことが起こるかも知れないってのに、引っ越す金も作れないなんてさ。実家に住ませてもらえたら、それが一番楽なんだけど……。反対を押し切って結婚したから、それは難しそうだし……」


「でもこの間、瑛斗の家に行った時は、家族三人で遊びに来いって、お母さんが言っていたじゃないか」


「それは、蒼汰がいたからだよ。俺しかいない時とか、電話では、文句ばかり言うんだ。せっかく大学に行かせてやったのに、すぐ辞めるから、金に苦労するんだ、って。向こうの親も同じだよ。だから結婚するのは反対だったのに、って言われて……。俺は今も、向こうの家には入れないんだよ」


「そうなんだ……」


 そこまで反対されていたとは、思っていなかった。たとえ反対していたとしても、祖父母というものは、孫が生まれると、変わるものだと思っていたからだ。


「なぁ、蒼汰。もし、このまま引っ越せなかったら、俺たち、どうなるんだろうな……」


 瑛斗は今にも泣き出しそうな顔で言う。


 それは、僕もずっと考えていることで。だからこそ、あの長い髪の女性のことを調べているのだ。正体が分かれば、解決策が見つかるかも知れないと思ったが、今のところは、糸口さえ掴めていない。


 それでも僕は、瑛斗の前では微笑まないといけないのだと思う。


「……大丈夫。きっと、何とかなるよ。今は、早くここから出ることだけを考えよう」


 ——僕は嘘つきだ。僕が一番、まずい状況だと分かっているのに。『大丈夫』なんて、よく言えたものだ。


 瑛斗は、消え入りそうな程小さな声で、うん、と言って、頷いた。






 マンションの敷地から出ると同時に、頭痛や耳鳴りは消えて行った。


 ——こんな所まで力が届くのか……。本当に、化け物だな。


 今更のように恐怖を感じたのか、手が勝手に震え出した。家の中に地縛霊のようなものがいたとしても、普通は外に出てしまえば、もう何も感じないはずなのだ。それなのに、瑛斗の家にいる化け物の力は、マンションの敷地内にまで及んでいるらしい。


 取り憑かれる前に、引っ越すことはできるのだろうか。もし間に合わなかったら、瑛斗や家族はどうなってしまうのか。考えを巡らせていると、胸が締め付けられるような息苦しさを感じた。


 もしかすると僕は、本当は分かっているのに、その先を考えたくないだけなのかも知れない——。

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