仕事を終えて、急いで待ち合わせ場所へ向かう。
二人とも給料日前なので、安い中華のチェーン店だ。僕が店に着くと、瑛斗が入口の横で手を振った。
「お疲れ。瑛斗の方が早かったな。先に入っていても良かったのに」
「いや、俺も今来たんだよ」
瑛斗は口元に笑みを浮かべるが、なんとなく、表情が暗く見える。僕は今更のように、家庭の事情についての相談だったら、どうしようか。などと考えた。
——まさか、奥さんと別れたい、とかいう話じゃないよな……。
独身の僕では、家族の未来を左右するような相談には乗れない。もし、そんな話をされたら、聞くだけ聞いて「親に相談した方が……」とでも言えばいいのだろうか——。
「入らないのか?」
声がしてふと気がつくと、瑛斗は、きょとんとした顔で僕を見ていた。
「あ……。入るよ!」
僕が言うと、瑛斗は店の中へ入って行く。最近は考え事ばかりして、自分の世界に入ってしまっていることが増えた気がする。僕は反省しながら、瑛斗の後を追った。
店の中に入った僕たちは、一番奥の席に座った。平日なので、客は少ないようだ。カウンター席の右端と中央には、男性客が見える。そして、離れているテーブル席には、家族らしき四人の姿がある。
席はパーティションで仕切られているので、聞かれたくないことも話しやすい。僕としては、瑛斗の家に棲み着いている『何か』と、引っ越しについて訊きたいが——。
「ごめんな、急に呼び出して」
瑛斗は、テーブルに視線を落としながら言う。
「僕は、誘ってもらえて嬉しいよ。どうせ、帰ってもすることはないし。それよりも、瑛斗は出かけても大丈夫だったのか?」
「……あぁ。仕事の付き合いだって言ってあるからさ」
「そうなんだ」
——言い訳してまで来たのか。
「最近、瑛斗とまた会えるようになって、嬉しいんだけどさ……。こんなにしょっちゅう僕に会っていても、奥さんは何も言わないのか? ずっと、会社と家との往復だって言っていたから、気になって」
「大丈夫だよ。ちゃんと、やることはやっているから」
「そう……か。それならいいんだけど。……今日は、なんで誘ってくれたんだ?」
「何で? 何か理由がないと、会っちゃいけないのか?」
瑛斗は投げやりに言いながら、僕から目を
「そうじゃない。今日の瑛斗は、笑っていても、本当は笑っていないような気がするからだよ」
僕が言うと、瑛斗は目を丸くして、ふぅ、と大きく息を吐いた。
「蒼汰はやっぱり、他人のことをちゃんと見ているよな。だから蒼汰といると、居心地がいいのかな」
「何か、あったのか?」
「何……ってわけじゃないんだけど……。家に、帰りたくなくてさ……。蒼汰と違って、里帆は俺のことなんて、見ていないんだよ。家に何かいるって話しても、まるで俺のことを嘘つき呼ばわりするみたいに、笑ってさ。何で、信じてくれないんだろうな。毎日毎日、俺がどれだけ怖い思いをしているか……」
瑛斗のグラスを持つ手に、グッと力が入ったのが分かった。
僕は、今の瑛斗の気持ちが、痛い程よく分かる。自分にしか視えていないものへの恐怖。理解してもらえない苦痛。僕が幼い頃から、ずっと一人で耐えてきたことだ。
分かってもらおうとすればする程、自分がつらくなる。
霊感がない人間には、どんなに説明をしても、絶対に理解はしてもらえない。彼らは何も視えないし、何も感じないのだから仕方がない。最初から期待せずに諦めた方が楽なのだ。
「……奥さんもさ。別に悪気があって、そうしているわけじゃないと思うよ? ただ、何も聞こえないし、何の気配も感じないから、分からないだけだと思うんだ」
「そうかもしれないけど……。でも、もうちょっと話を聞いてくれたって……。全部本当のことなんだ。嘘じゃない……」
瑛斗は
僕が思っている以上に、瑛斗はずっと一人で、家の中の妙な気配に怯えていたのかもしれない。僕が幼い頃からずっと、誰かに言って欲しかった言葉は——。
「僕は、瑛斗のことを信じているよ。それに、心配なんだ。最近は、ずっと瑛斗のことばかり考えていて、仕事も手につかないし。僕も協力するからさ、二人で何とかしよう。大丈夫だよ」
僕が言うと、瑛斗はやっと顔を上げた。今日はずっと
「うん……。ありがとう」
瑛斗は、はにかむように微笑んだ。
『信じている』という僕の想いが、少しは届いたのだろうか。これで元気になってくれたら、言うことはないのだけれど。会う度に、元気がなくなっているように感じる瑛斗が心配だ。
それにしても、根本的な問題をどうするかを、考えなくてはならない。僕が何を言おうが、瑛斗の家族は、奥さんと娘なのだから。
——やっぱり一度、家を見にいった方がいいのかも知れないな……。
そう考えていると、突然瑛斗が、ふっと笑った。
「何?」
僕はまた考え事をして、変な顔でもしていたのだろうか。
「いや。蒼汰が奥さんだったら、幸せだっただろうな、と思って。そうしたら、変な想像をしちゃったんだよ」
瑛斗は、ハハ、と声をあげて笑う。
「どんな想像? それに、何で僕が奥さんなんだよ」
僕が眉を寄せると、瑛斗は「ごめんごめん」と言いながら、笑い続けた。
——いつもの明るい瑛斗に戻ってくれるなら、別に何でもいいけど。
奥さんも、家で起こっている心霊現象に気付いていないだけで、瑛斗のことを大切に思っているはずだ。あんなに楽しそうに、話しかけていたのだから。僕には、とても幸せそうな家族に見えた。
「そういえば日曜日に、瑛斗を見かけたんだよ。いつも行列ができているコーヒーショップがあるだろ? あの近くを歩いていた時だよ」
「そうなんだ。声をかけてくれたらよかったのに」
「まぁ、瑛斗だけならそうしたけど、奥さんと子供が一緒だっただろ。だから、声はかけなかったんだよ。邪魔しちゃ悪いかな、と思って」
「奥さんと子供? 俺は、一人でぶらついていたんだけど。見間違いじゃないのか?」
「え……?」
——あんなに寄り添って歩いていたのに、一人?
どう見ても奥さんは、瑛斗に話しかけていた。いくら道路の反対側だったとはいえ、それは慎也も見ている。
——あれは、他人の距離じゃなかった。慎也と二人で、美人の奥さんだなって話をして——。
何だろう。とてつもなく、嫌な予感がする。