帰りもまた、川沿いを歩く。
瑛斗はしばらくの間、黙ったままで歩いている。今は何を考えているのだろう。その表情はいまいち読めないが、ずっと僕が気になっていることを、訊いてもいいのだろうか——。
「なぁ、瑛斗。引っ越しのことをさ……奥さんと、ちゃんと話せたのか?」
「あぁ……、うん。話したよ」
「奥さんは、なんて……?」
「『そんなお金どこにあるの?』ってさ。まぁ、そうなんだけど」
瑛斗は伏し目がちに笑う。
「そうか……。奥さんは怪奇現象が起こっていても、気にならないのかな。幽霊は信じていないタイプの人なのか?」
「里帆は、気付いていないんだよ」
「えっ?」
霊感がない瑛斗でも不安になるほどの、怪奇現象が起こる家だ。僕は当然、奥さんも気付いているものだと思っていた。
「でも瑛斗は、畳の上を踏む音とか、廊下を走る音が聞こえるって言っていたよな。だったら、ラップ音も聞こえると思うんだけど。あれは霊感がなくても聞こえやすいはずだ。それでも奥さんは、何も気付いていないのか?」
「そうなんだ。だから、話が進まないんだよ。俺は何度も、何かがいるって言ってるんだけど、信じてくれなくて……。結局、すぐに金の話になるんだ」
瑛斗は深くため息をついた。
「そんなことって、あるんだ……」
——奥さんは、相当鈍い人なのかな。
瑛斗の話を聞く限り、家の中にいる何かは、人間に自分の存在を気付かせようとしている。霊感がなくても、認識しやすいはずだ。本当に瑛斗しか、気付いていないのだろうか。
「じゃあ、娘は? 娘は怖がったりとかは、していないのか?」
「結衣は……もしかしたら、気付いているかも知れない」
「どうしてそう思うんだ?」
「時々、何もない場所を、じっと見ていることがあるんだ。蒼汰と同じようにね。それにこの間は、壁に向かって話しかけていて……。最初は、まだ小さいから、おかしな行動をすることもあるだろうと思って、気にしていなかったんだけどな。なんか最近……回数が、増えてきた気がして」
瑛斗は眉根を寄せる。
もし、瑛斗が感じている通りに、娘の奇妙な行動が増えてきているのだとしたら。もしかすると娘は、家の中にいる何かと、
少しずつ、視えないはずのものが、視えるようになってきている——。
「瑛斗。それは本当に、よくない状況かも知れない……」
「よくないって、どういうことだよ。結衣が危ないってことか?」
瑛斗が立ち止まって、僕の両肩を掴む。彼の唇の色が、みるみる薄くなっていくのが分かった。
——やっぱり、不安だよな。ちゃんと説明した方が、いいのかも知れない……。
「別に、
もしかすると瑛斗の娘は、家にいる何かと、深く繋がってしまっているのかも知れない。段々と、姿が視えるようになって、声が聞こえるようになって、会話ができるようになる。——今こうして、僕と瑛斗が話しているように」
「……それは、大丈夫なのか……? ただ、話せるようになるだけか……?」
「それは分からない。
瑛斗の顔がこわばり、蒼白になる。
「なぁ、蒼汰……。なんとか……できないのか? 結衣に何かあったら、俺……」
「だから、一刻も早くあの家から出るんだ。家から離れたら、繋がりも切れると思う。これ以上、何かが起こる前に、早く引っ越すんだ」
僕が瑛斗の両肘をぎゅっと握ると、彼は
分かっていても、どうすることもできない今の状況が、瑛斗も
——娘に危険が迫っていると分かれば、奥さんの考え方も、変わるんじゃないかな。
「僕も一緒に、奥さんを説得しようか?」
「え?」
「瑛斗が言って聞く耳を持たなくても、他人から危ないと言われたら、少しは考えてくれるかも知れないだろ?」
「うん……」
瑛斗は何やら考え込んでいる様子だ。やはり他人は、入らない方がいいのか——。
「……実はさ。最近里帆は、あまり家にいないんだよね」
「ん? なんで」
「仕事が忙しいんだってさ。最近は昼間だけじゃなくて、夜まで仕事をすることも多いんだ。遅い時は二十二時頃に帰るから、幼稚園の迎えも、俺が行ったりするんだよね。家計が苦しいのは分かるけど、俺だって……忙しいのに……」
僕の両肩から、瑛斗の手が滑り落ちる。だらりと両腕を垂らし、
「そうなんだ……。じゃあ、ゆっくり話せていないのか」
「うん……。蒼汰に来てもらっても、話を聞いてくれるかどうか……」
「奥さんと、喧嘩をしているわけじゃないんだよな?」
「そうじゃないけど……。段々と俺も、里帆に話しかけるのが嫌になってきて……」
自分がやりたかったことを全て諦めて、結婚を選んだはずなのに、そこまでしても、気持ちがすれ違うようになってしまうのだろうか。まだ独身なのでよく分からないが、夫婦になったから一生仲良く。とはいかないようだ。
「とにかく。娘の為にも、なんとか奥さんを説得した方がいい。手遅れになってからじゃ、遅いんだ」
「うん……」
瑛斗は俯いたまま、その場に立ち尽くした。
晴れていたはずの空は、いつの間にか、どんよりと曇っていて、目の前で俯いている彼の、心の中を映し出しているかのようだった——。