「蒼汰に電話をする前の日に、夢を見たんだ。顔は分からないけど、女の人だったよ。寝ている俺の周りを、ずっと歩いているんだ。それで、顔を
ただの夢かも知れないんだけどさ。なんか……妙にリアルっていうか……。女の人が覗き込んできた時に、髪の毛が顔に当たったんだけど、その感触を、今も覚えているんだよな。それに夢を見ている間、ずっと甘い匂いがしていたんだ……」
「甘い匂い、か」
夢で見た出来事を覚えていることはあるが、匂いまで覚えている、というのが気になる。
僕自身が、心霊現象に出会した時に、その匂いがやたらと記憶に残る事があるからだ。磯の匂いを凝縮したような、汚れた川のヘドロのような、そんな鼻につく匂いが多かった。しかし僕は、甘い匂いは経験したことがない。
——今までに僕が出会したことがあるものとは、別物なのか?
今はまだ、彼が取り憑かれているようには見えないが、たしかに意識を集中させると、冷たく刺々しい気配を感じる。家にいる何かの気配なのだろうか。ただ、どちらにしろ、長く住むのはよくないに決まっている。
「そんな、何かがいるって分かっているような家ならさ。早く出た方がいいんじゃないのか?」
取り憑かれると、あとが厄介だ。
「簡単に言うなよ。……金がないんだからさ」
「あぁ……そっか……。敷金礼金って高いもんな」
「それだけじゃないよ。家族だと荷物も多いから、引越し業者を
「そうなんだ……。僕は経験がないから分からないけど、そうか。三人分だもんな」
「うん。でも、このまま住むのも……」
瑛斗は俯いて目を瞑った。誰だって、心霊現象が起こる家に住み続けるのは嫌だろう。瑛斗も、本当は早く引っ越したいはずだ。
「不動産会社には話したのか? もし、事故物件だと分かっていて契約させられていたら、引越しができるくらいの金は、もらえるかも知れないし」
「それが……無理なんだよ」
「——どういうことだ?」
「解約できないんだ」
「解約できない? なんで」
僕が訊くと、瑛斗は俯いたままで、
「前に住んでいたアパートは2DKで、家族三人で暮らすには狭かったんだ。結衣も段々と大きくなってきて、リビングも
結構古いんだけど、3LDKで、前のアパートと同じくらいの家賃だったんだ。でも一応、もう少し安くならないかって聞いてもらったら、あっさり相場の半額以下で借してくれるって言われて……。おかしいとは思ったんだ。安過ぎるからさ……。でも、こっちとしても助かるから、そのまま契約したんだ。その代わりに、三年間は解約できない契約でね」
「三年? ずいぶんと長いな。大体は二年契約だろ」
「うん。……でも、どうせ引越す金なんてないから、別にそれでいいと思っていたんだ」
瑛斗の話を聞く限り、間違いなくその部屋は、事故物件だろう。
過去に人が死んでいる物件。特に自殺・他殺・火災などの事故での死に対しては
もしかすると瑛斗が借りたのは、誰かが亡くなったばかりの部屋なのかも知れない。だから、相場の半額以下で借りることができたのだろう。瑛斗の契約期間が満了する頃には、告知義務がなくなるのだ。それにしても——。
瑛斗の言う通り、幼い頃から霊の
「なぁ、瑛斗。金がないのは分かるんだけどさ、やっぱり、早く引っ越した方がいいよ。最初は音がするだけだったのに、気配を感じるようになって、妙な夢まで見たんだろ? 霊感がなくても、霊気が強い場所に居続けると、段々と波長が合ってきて、視えるようになる場合があるんだよ」
「……蒼汰は、幽霊を追い払うことはできないのか?」
「僕にはそんな力はないよ。ただ、視えるってだけだ」
「そうか……」
瑛斗はガックリと
「とにかく、早く引っ越せるように、奥さんと話し合った方がいいよ。これ以上、何かが起こる前に、その家を出るんだ」
「うん……」
『その部屋で人が亡くなったのは、最近のことなのかも知れない』はっきりとそう言えば、瑛斗も引っ越しを急ぐ気になったかも知れない。けれど、項垂れている瑛斗を見ていると、僕はそれ以上、彼を不安にさせるようなことは、言えなかった——。