居酒屋での夕餉を終えて壬生村に戻る頃には、もう日はとっぷりと暮れていた。とはいえ、遅すぎるということもない。夜五つ(午後20時頃)であり、市中の商家なら灯明を照らして帳簿をつけている者もいるだろう。
しかし、壬生村は農村である。日が暮れればできる仕事もなく、また灯明の油だって安くはない。夜番の新選組隊士を除けば眠りに就いている頃合いである。
この時刻になったのは偶然ではない。早すぎれば起きているものにからかわれるし、遅すぎればそれはそれで別の邪推を生む。一番騒ぎになりにくい時間を狙ったのである。
「居酒屋でご飯をいただいたのなんて初めてです。注文すると好きなお料理を食べられるなんて、なんだか不思議ですね」
「そうか。居酒屋なんてのは大抵野郎ばっかりだからな」
江戸時代、外食産業が発展したのは大都市圏に出稼ぎの男たちが集中したためである。日中は仕事で忙しく、独身では自炊する暇などない。おまけに男所帯の安長屋には、まともな炊事場がないことも多かった。必然的に外食の需要が高まり、それに伴って江戸の外食文化が花開いたのだ。
反対に言えば、自炊が基本の田舎では居酒屋など存在しようもない。都会に出てくる女たちも奥向きの仕事が主となるため、外食を利用する機会など滅多にないのだ。地方から公家に奉公に来たミチに、居酒屋を利用した経験がないのも当然だった。
「それで、美味かったか?」
「はい、どれもとっても美味しかったです。もち米のちまきはお弁当にもよさそうですね。刻んだお揚げさんと炊くなんて思いつきもしなかったです」
兄の話をしたときは暗い顔をしたミチだったが、いまはすっかり明るい表情を取り戻していた。居酒屋に誘った甲斐があったと土方は胸をなでおろした。
「おや、今夜はずいぶん人手があるな」
市中を抜けて、拓けたあぜ道に出た土方の目に映ったのは田畑の間に点々と光る提灯の明かりだった。何事かあったのだろうか。心持ち早足になって八木邸への道を進んでいると、
「あっ、トシさん。おかえりなさい」
「お、総司じゃねえか。一体何があったんだ」
暗闇の向こうから、提灯を掲げた沖田の姿が現れた。
「暗くなってもケン坊が帰ってこなくって。心配した村のみんなが探してるんですよ。近頃は神隠しが流行ってるらしくって」
「ケン坊?」
沖田と違い、子どもと遊ぶ趣味のない土方には名前を言われてもわからない。
「小作人の五平さんのところの子ですよ。これくらいの背で、いつも青っ洟を垂らしてる」
沖田が腰のあたりに手のひらをやり、いなくなった子どもの背丈を示す。小作人の名など出されてもやはりわからないが、五つか六つくらいの幼児らしいということはわかった。
「それで、おめえさんも手伝ってるってわけか」
「ええ、そういうわけです」
「なら俺も手伝うぜ」
「えっ、本当ですか!? それは助かりますけど、ケン坊は男の子ですよ?」
「馬鹿野郎、オレを何だと思ってやがるんだ」
土方が拳を振り上げて睨んでみせると、沖田は両手を上げて笑った。
まあ、普段であればこの程度のことでは土方が出張らないのは事実だ。しかし、人攫いの噂ならつい今しがた聞いてきたばかりで、被害者の年頃も合う。犯人の手がかりがつかめるかもしれない。
「あの、それならわたしも手伝います」
「いや、夜道は危ねえ。ミチさんは先に帰っててくんな」
ミチもおずおずと白い手を上げたが、土方がそれを制して提灯を渡した。女連れでは動きにくいし、何かあったときに守れないかもしれない。沖田がアーシアを連れていないのも同じ理由だろう。
「では、わたしは屯所で温かいものを作ってお待ちしてますね」
「おいおい、それじゃせっかく休んだ意味がねえだろ……って、行っちまったか」
土方の声ははたして届いたのか。
京紫の小袖の背中は八木邸に続く道の闇にすぐにかき消えてしまった。
「鬼の副長が珍しい。仏心に目覚めました?」
「馬鹿野郎。オレはもともと優しいんだよ。てめえらが勝手に鬼だの何だのと誤解してるだけだ」
にやにや笑う沖田を再び拳で威嚇して、土方と沖田はケン坊の捜索を開始した。
* * *
一刻ばかりして、八木邸に戻った土方と沖田はほっと胸をなでおろしていた。
八木邸の土間で、青っ洟を垂らしたケン坊が、母親の胸に抱かれてびいびいと泣いていたからだ。その周りを、捜索を手伝った村の男たちが囲んでいる。
「ったく、人騒がせな。単なる迷子か」
「申し訳ございません……」
「ケン坊も遅くまで遊んでんじゃねえぞ」
「ごべんなざいー!」
男たちはぶつくさと文句を言っていた。普段ならとっくに寝ている時間なのだから、不機嫌になるのも仕方がないだろう。とはいえ、これでは針の筵であまりに哀れだ。
「まあまあ、そういきり立つなって。無事に見つかってよかったじゃねえか」
「そうそう、神隠しにあった可哀想なケン坊なんていなかった。それでいいじゃないですか。なあケン坊、何して遊んでたんだい?」
土方は両手をついて頭を下げる母親を助け起こしてやり、沖田はからからと笑ってケン坊の頭を撫でた。
武士がこう言っているのに自分たちが怒り続けるわけにもいかない。文句を言っていた男たちもその口をつぐんだが、その顔は不満げだ。
土方は小さくため息をついて、
「あー、みんな腹も減ったろう。ちょっと待ってろ」
ミチが何か作ると言っていたことを思い出し、台所へ顔を出した。しかし、そこには誰もおらず、かまどにも火が入っていない。
(素直に休めって言ったのが聞こえてたのか? ま、珍しいことに付き合わせて疲れたのかもな)
土方は首を傾げつつ、飯よりこっちの方が喜ぶだろうと酒壺を抱えて土間に戻った。適当な茶碗に酒を注いで配ってやると、男たちから「おお!」と歓声が上がる。
「空きっ腹に酒だけじゃ体に悪いでしょ」
沖田が呆れ、台所からお櫃を持ってきた。余り物の漬物を刻んだ混ぜご飯だ。その場でぱっぱと握り飯を作り、それも配ってやる。
そうしてごく短い酒宴を終えた翌日のことだった。
「ミチが帰ってねえだと!?」
寝起きの土方の目を覚ましたのは、ミチの姿がどこにも見えないという知らせだった。