ピタの昼餉を済ませた沖田とアーシアは、八木邸の裏手にある壬生寺の境内にいた。住職に断って井戸を借り、水を汲んで桶に張る。
「都の水はいつ汲んでもきれいだなあ」
桶の水は見事に澄み渡り、濁りひとつ見当たらない。山に囲まれた盆地で地下水が豊富なため、都にはこうした井戸や湧き水があちこちにある。
「確かに、言いにくかったデスガ、江戸の井戸水はちょっと臭いマシタネ」
沖田の言葉に、アーシアがちょっと困ったような顔で頷いた。
江戸の井戸は基本的に、地下水を汲み出す掘り抜き井戸ではない。地下に巡らした水路に墨田川などから引いた水を通しているのだ。水路は定期的に掃除をするが、コケも生えるしゴミも混ざる。都のそれとは根本的に質が違うのだ。
「それで、これでどうするんだっけ?」
「聖水を作りマス!」
「聖水?」
「魔祓いの効果を持つ祝別された水デス。低級の霊にしか効果がないですし、何日も保つものではないのでこれまでは用意しませんデシタガ……あった方がよさそうだと思いマシテ」
「ああ、ここ何日かの相手みたいなやつら用ってことか」
油洞院の退魔行で現れる魔物はどれも弱く、
「アーシアも臨兵闘者ーってやるの?」
沖田が思い浮かべたのは油洞院が行っていたまじないだ。
大汗をかきながら九字を切り、真言を唱えて気合を放つ。ああいうことをアーシアがやる姿はあまり想像がつかなかった。
「イエ、わたくしは
悪魔祓いは聖職者であれば誰でもできるというものではない。才能を認められた者が長年の修行を重ね、やっと認められるのが祓魔師である。神学だけでなく歴史学、民俗学、医学などを広く修めた高度な専門職なのだ。
「デモ、お水の祝別くらいならわたくしにもナントカ。このお寺ならお水も空気も清らかですノデ」
アーシアは桶の前に両膝をついてて十字を切った。
それから首のロザリオを外して水に浸し、両手を胸の前で組んで目を瞑った。
「
アーシアの口から耳馴染みのない言葉が紡がれ始めた。
ラテン語の聖句である。もちろん沖田には意味がわからない。わからないが、辺りの空気が清浄さを増したような気がする。心の底に溜まった澱が洗い流されていくような不思議な感覚だ。
沖田の心の澱――もっとも近いところでは油洞院の件だろう。退魔行と称して日々連れ回されるのは叶わない。こちらにも本業があるのだ。そう、本業。不逞浪士を取り締まり、都の治安を守り、将軍や帝の御心を安んじ奉ること。
そして坂本龍馬の捕縛と魔書〈ネクロノミコン〉の奪還。沖田はこれまで何度となくその瞬間を思い浮かべようとしたが、坂本龍馬に沖田の剣が届こうとすると、必ずあの岡田以蔵が立ちはだかる。三段突きは初見で見切られた。では四段突きならばどうか。宮本武蔵との死闘の果て、無我夢中で放った一閃。
沖田は想像の中で岡田以蔵と対峙する。
加州清光を平晴眼に構え、一段、二段、三段と突きを放つ。そこから脇差しに手をかけて――それは右手であったか、左手であったか。三段目の突きは左手一本突きだった。二段目は? 二段を引く時点で右手は脇差の柄にあった。三段を突くと同時に脇差を抜刀。三段を引きながら反動で右を突く……
沖田は思い描いた動きを頭の中で何度も繰り返す。
四段を放った瞬間から、岡田以蔵の姿は黒い靄に変わっていた。これまでにはなかったことだ。具体的な想像ができないのは、もはや沖田が予想できない領域に踏み入ったということだった。
(これなら、勝負になる)
心の内で負けているうちは勝負にすらならない。剣とは心技体の複合だ。心で並んで始めて同じ土俵に立てるのだ。
沖田はいつの間にか閉じていた目を開いた。
初春の日差しを浴びたアーシアの金髪が煌めいている。岡田以蔵を倒し、〈ネクロノミコン〉を取り戻せばこの任務は終わりだ。アーシアは海を渡って遙か彼方の母国に帰る。それは喜ばしいことのはずだ。そのはずなのだが――
胸の奥がむず痒くなって、けほけほと空咳が出た。
居鷹村での一件以来、時折この咳が出るようになった。隊士たちに無用な心配をかけたくないから人前では我慢をしているのだが、考え事に耽ったせいでどうも油断をしてしまったらしい。
アーシアは身じろぎ一つしていない。祈りに集中しているようだ。
気づかれなくてよかったと、沖田はほっと胸を撫で下ろす。
そしてアーシアの祈りが止んだ。
懐紙に包んだ塩を取り出し、桶の水にひとつまみ振りかける。清めの塩というのは伴天連にもあるんだなと、沖田は妙なところに感心してしまう。
「フウ、お待たせしマシタ。これで完成です」
アーシアが出来上がった聖水を竹筒に入れて栓をした。
「ずいぶん余ったけど、残りはどうするの?」
竹筒に入る量などたかが知れている。桶にはまだたっぷりの聖水が残っているのだ。
「ウーン、普通のお水と同じで何日も汲み置けるものではないので、お庭に撒いてしまってもいいんデスガ」
「庭に撒いてもいいんだ」
意外な答えに沖田は拍子抜けしたが、アーシアは「お水はお水ですカラ。飲んだってかまわないんデスヨ」とあっけらかんとしている。
「伴天連って思ったよりゆるいんだね」
「神の御心は深く広いのデス。それで、お水の使い途デスガ――」
アーシアは唇に指を当て、しばらく小首を傾げると、
「すっかり冷えてしまいマシタネ。これで温かいお茶でも淹れマショウ。あっ、生姜湯でも作りマショウカ? 風邪を引いてはいけませんカラ」
そう言って、にっこりと微笑んだ。
咳の件はバレていたのか。
沖田は若干の決まりの悪さを苦笑いで誤魔化しつつ、桶を抱えて八木邸へ戻るのだった。