帝の住まう御所、その西門。
敷地を囲む白い海鼠塀には染みひとつなく、高々とそびえて内部を見通すことはかなわない。銅板張りの分厚い門を抜けると、黒々と分厚い瓦の積もった屋敷が見事な庭園の先に見える。玄関を抜け、寝殿造りの廊下をいくつも折れるうちに、自分の居場所がわからなくなる。一町(野球場程度の広さ)にも満たぬはずの屋敷が、その何倍、何十倍もの迷宮に感じられる。
奇門遁甲。
道教に端を発し、陰陽道で独自に練り上げられた迷宮化の占術だ。かの諸葛亮孔明が、夷陵の戦いで用いたものが最も有名だろう。万の大群をも惑わす大呪術が洛中の一角にあるたったひとつの屋敷に施されているのである。
(畜生が、生まれ育ちに胡座をかいた無能者がこんな屋敷をこれみよがしに)
ひいふうと荒い息をつきながら廊下を渡っているのは油洞院盛清である。脂肪を巻いた身体をぶよぶよと揺らしつつ、床板にきしきしと悲鳴を挙げさせながら歩いていた。
案内をする使用人は巫女服に狐面を被って正体がわからない。その動きはからくり人形の如くぎこちなく、生きた人間には到底見えなかった。出入りの商人の応対もこれらの狐面が行うため、市中の町人たちは使用人に式神を使っているのだと噂している。
(とんだ茶番だ)
しかし、油洞院の見立ては違う。これはただの演出に過ぎない。謎めいた霊力を秘めた一族であると見せつけるための手間隙かかった小道具なのだ。
狐面の中身はおそらく身元の探りようのない下賤の者であろう。どこぞの田舎で攫ってきた孤児や浮浪児を仕込むのだ。人間性を奪い尽くすことで、人形の如き振る舞いをする人の如き何かを創り上げる。
(ふん、いかにも土御門が得手にしそうなことだ)
大汗をかきながらやっとたどり着いたのは大広間である。昼日中だと言うのに陽光は一切差し込まず、わずかな灯明で赤く照らされている。暗がりの奥には御簾がかけられ、さらにその奥には烏帽子をかぶった人影が見える。
御簾の向こうから、人影が声を発した。洞穴の奥から響くような声。
『油洞院、参ったか』
「はっ」
油洞院は広間の中ほどまで歩を進め、そこで両膝をついて平伏する。床板の冷たさが、硬さが狩衣を通して伝わってくる。己の体重で軋む膝が痛い。
『連日の退魔行、大儀である』
「はっ」
さらに深く平伏する。額に床板の冷たさを感じる。
声までもわざとらしく演出されている。法螺貝か何かを口に当てているのだろう。子供だましのまやかしだ。こうしたまやかしを重ねて土御門家はその権威を保っている。旧弊にしがみつく張り子の虎だ。
『どうも悪い気がついておるな。払って進ぜよう。面を上げい』
「はっ」
ようやく顔を上げる。御簾の向こうの顔が遠い。これが従五位下
あるいは、この世が引っくり返るような大乱。
『――急急如律令。鋭ッ』
真言を唱え終えた土御門が気合を発した。清冽な風が油洞院の身にこびりついていたわずかな邪気を吹き払う。退魔行の間に染み付いてしまったものだ。油洞院の退魔行は彼にとって安全の保証されたものであったが、こうした残滓はどうしても残ってしまう。
『気分はどうだ』
「はっ、軽くなりました」
『ほほほ、そうであろうな。これが土御門の力よ』
これだけは虚仮威しではない。本物の呪力、霊威、聖気である。いや、言い様は何でもかまわない。平安の世から伝わる秘書「占事略决」と、それから生み出された陰陽道の鬼子、安倍晴明の遺産が為せる技である。
元治の世にまで残る陰陽師たちに、かつての霊能の技などない。灯明に、書物に、鉄砲に、あやかしの技は照らし出され、その暗闇のほとんどを消し去られた。縋るのは千年の昔に陰陽師たちが創り上げた邪法の技の名残りのみ。
――占事略决外典「人群蠱毒の法」
あの女は、それを油洞院の手元にもたらした。
さらに、お誂え向けにそれを実現するためだけの資金を稼ぐ手立ても用意してきた。油洞院は無意識に懐に手を入れ、そこにしまったモノの感触を確かめた。
一端は指先ほどの鋭い円錐。その底には二股に割れた突起物。何かの獣の牙であろうか。それらを使えば、女が仕込んだあやかしなどは容易く祓える。引き換えに女が要求してきた条件は意味のわからぬものだったが、油洞院にとってはどうでもいいことだったし、その条件はすでに満たせた。
油洞院自身、平穏の時代に霊能を失った陰陽師である。あやかしなど昨今の騒動があってその存在を初めて信じた。いまでも、どこか信じきれない気持ちはある。
だが、目の前で起きていることは現実だ。自身は功名を重ね、新選組さえ走狗としてその名を高め続けている。金も溜まっている。千年の歴史を覆す日は近い。
「ひひっ、ひひひ」
『どうした、油洞院』
「いえ、あまりの光栄につい」
いかんいかん、いつの間にやら含み笑いが漏れていたようだ。
『我に成り代わる算段がついて嬉しいのか』
「はっ!?」
背中がさっと冷えた。
こいつは、土御門は何を言っている。
『賄賂など通じぬぞ。我が土御門は千年に渡り宮城を安んじたらしめて参ったのだ。その重みは千金、万金よりも重い』
「はっ……はっ……」
『貴様は土御門の犬に過ぎんのだ。分を弁えている限り、我はお主の忠勤を歓迎するぞ。くれぐれも、己の分を忘れぬことを期待しておる。では、去ねい』
「はっ……」
広間を出るわずかの間に、油洞院は汗みずくになっていた。豪奢な衣装が汗を吸って変色し、裾からは雫が垂れそうになっている。彼の歩く道筋はじっとりと濡れ、さながらナメクジの這った後のようだった。
狐面の背中を追いながら、油洞院は心の中で繰り返す。
(バレていた。バレていた。すべて見通されていた。だが、占事略决の秘事が漏れたことまではわかっておるまい。人群蠱毒、人群蠱毒、人群蠱毒、人群蠱毒……これさえ為せば、麻呂は安倍晴明をも超える大陰陽師になれるのだ)
「ひひっ、ひひひひひ……」
薄暗い廊下に油洞院の笑い声が響いたが、それを聞くのは表情ひとつわからぬ狐面のみであった。