「フンフンフフ~ン、叩いて叩いて叩きまくッテ~」
鼻歌交じりで包丁を使っているのはアーシアである。
日本の出刃包丁を両手で持ち、トントコトントコまな板に振り下ろして何かをぐちゃぐちゃと刻んでいる。
「何をしとるんですか?」
その手元をぎょっとした目で見つめているのは井上源三郎だった。
アーシアが刻んでいるのが、豚の耳、豚足、背脂に内臓など……臭みや脂が強く、今朝潰した豚の食べずに捨てる部位ばかりだったからだ。
「こういうところも実は美味しいんデスヨ」
「わたしもお手伝いしましょうか?」
「ハイ、お願いシマス!」
台所に漂う血なまぐささに閉口した源三郎が退出するが、ミチは嫌な顔ひとつせず手に伝いを申し出て、包丁を取ってアーシアの隣に並んだ。
「同じくらいに細かくすればよいのでしょうか?」
「イエ、荒くて大丈夫デス! 口に当たらないの大きさになっていれば、バラバラの方が楽しいくらいデス!」
「なるほど、あえて乱切りにして舌触りに変化をつけるのですね」
「そういうことデス!」
トントコトントコトントントン。
挽き肉の塊が山盛りになったところで、
「フウ、こんなところで次の工程デス!」
アーシアは大鍋に豚肉を入れると、刻んだ生姜やニンニク、ヨモギと一緒に炒め始めた。血なまぐさい臭いが一掃され、代わりに焼けた豚油の香ばしい香りが台所に立ち込める。
すると匂いに惹きつけられた源三郎も戻ってきて、「なんですか、これは?」と鍋を覗いてきた。
「トリッパみたいなものデスネ。本当はトマトで煮込むんですが――」
アーシアは同じく刻んだ蕪の古漬けを鍋に加え、さらに炒めた。最初はむわっと酸っぱい香りが立ち上がったが、次第にまろやかな甘い香りに変わっていく。
「へへえ、漬物を肉と一緒に炒めるなんて思いも寄りませんでしたなあ」
そもそも江戸で扱う肉といえば鶏肉か、兎がほとんどである。
それらも高価なため、専門の料理屋でもなければ手間隙かけて余計な仕事をすることは少ないし、それにしても例えば鍋ならば野菜や豆腐と一緒に肉を煮込むが、混ぜ込んでぐちゃぐちゃにするようなことはないのだ。挽き肉料理といえばせいぜいが鶏のつくねやそぼろくらいだろう。
鍋の中がちょうどその鶏のそぼろくらいにしっとりしたところで、アーシアは鍋を火から下ろした。続いて小麦粉を取り出し、水を加えて大鉢で練り始める。
「おや、うどんですかね? それともすいとんですか?」
「イエ、うどんでもすいとんでもありマセン」
アーシアは練った生地を一つまみちぎり取ると、それを丸めて円形に薄く伸ばした。大きさはちょうど手のひらくらいで、今度はそれを肉を炒めていたのとは別の鍋に貼り付けて焼く。
「ふむふむ、煎餅ですかな?」
「イエ、煎餅でもありマセン」
「へへえ……」
源三郎にはアーシアが何を作っているのかさっぱり検討がつかない。
焼いた生地は確かにせんべいではなかった。表面に焼き目こそ付いているが、しっとりと柔らかく、まるで厚手の布地のようだった。
「あとはお漬物を刻んで完成デス!」
「ははあ……」
源三郎は言われた通りに古漬けを取り出したが、アーシアが作った料理が一体何だったのか、結局その正体はわからなかった。
* * *
「皆サーン! お昼の時間デスヨー!」
「みなさま、昼餉の支度ができました」
アーシアとミチが声をかけて回ると、屯所に残っていた隊士たちが一斉に食堂に集まった。その中には今頃起き出してきた沖田や土方もいる。
そしていつもと違う食卓の様子に、それぞれに戸惑いの表情を浮かべた。
「昼だっつうから起きてきたが……膳の支度がまだじゃねえか」
最初に首を傾げたのは土方である。
普段ならば一人ひとりに膳が用意されているのだが、今日はどこにもそれが見当たらない。
「真ん中のこれからめいめいに取り分けろってことかな?」
「さすがはソージ様! その通りデス!」
そしてアーシアの意図を最初に察したのは沖田である。
食卓の中央に何かを茶色く炒めた大鍋があり、その脇には薄い煎餅のようなものと漬物を刻んだ大皿がある。アーシアと一番深く長く付き合っているのが沖田だ。変わった企みに気がつくのも早かった。
「で、どうやって食べるの?」
「ハイ! まずはこのピタを一枚手に取ッテ」
「この煎餅がピタって言うの? わ、煎餅かと思ったらくたっとしてるや」
「それにお鍋の肉を入れて、お漬物を好きなだけ挟んでかじってくだサイ」
「ふうん、こんな感じでいいのかな」
沖田は言われたとおりにピタに挽き肉と漬物を挟んでかぶりついた。
焼いた小麦の香ばしさが口中に広がり、それから漬物の頬の内側がきゅうっと痛くなるほどの酸味。しかし肉の脂の甘みがそれらをまろやかに包み込む。
「うわっ、こりゃすごいや。何個でも食べられそう」
「なんだ、美味えのか? どけどけ、次はオレだ。朝から何も食ってねえからすっかり腹が減っちまったよ」
土方も同じようにして食べると、一瞬その酸っぱさに顔をしかめてから、それから目を丸くして膝を打つ。
「美味え! なんだこりゃあ、酸っぱくてしょっぱくて、食ったことがねえ味だな。こいつぁ何て料理なんだい?」
「ウーン、特別名前はないですケド、あえて言うなら漬物トリッパのピタ包み、デショウカ」
「ぴたっと包んでるからピタ包みってか。そりゃあいい名前だ」
「イエ、そういうわけじゃないですケド……」
アーシアの訂正の声も群がった隊士たちの喧騒に包まれて消える。
ピタは古代ローマ帝国の時代から続く地中海一帯の伝統料理だ。令和日本では膨らませて焼き、半分に切って中空に空いた隙間に食材を挟むのが一般的だが、そうした食べ方が流行ったのはむしろ近年になってのことだ。もともとは今回アーシアが作ったようにそのまま包むことの方が多かった。
なお、酸っぱくなった漬物を肉料理と一緒に食するのはアーシア独自の発想ではない。ドイツで盛んに食べられているザワークラウトからの連想だった。誤解されがちだが、ザワークラウトはキャベツの酢漬けではない。キャベツを塩で漬け込み、乳酸菌発酵によりあの独特の酸味を得るものなのだ。
そして、乳酸菌発酵による酸味は井上源三郎の蕪の古漬けとまさしく同じものだったのである。古漬けを味見したアーシアは一口でそれに気が付き、肉料理と合わせることを思いついたのだ。古漬けの強烈な酸味はこれまで捨てていた端肉の臭い消しに役立ち、肉の脂は古漬けの酸味を和らげるという一石二鳥である。
「いやあ、それにしてもこれは美味い」
「朝稽古の空きっ腹にしみるねえ」
「沖田さんの言う通り、いくつでも平らげられそうだ」
「なんて言う料理だっけ?」
「土方副長がぴたっと包みって言ってたぞ」
「ぴたっと包みかあ。これは毎日でも食いたいぞ」
ピタは試衛館出身ではない隊士たちにも好評で、山盛りだったピタがみるみる数を減らしていく。
こうしてアーシアのピタは、ベーコンエッグなどに続いて新選組の献立の定番となった。
しかし呼び名は「ぴたっと包み」で定着してしまい、源三郎はこれまで誰も見向きもしなかった古漬けの量産に追われることになるのだが、それはまた別の話である。