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第93話 井上源三郎の漬物講座

 明くる日、油洞院は屯所にやって来なかった。

 日が昇ってしばらく経つが、普段なら朝稽古に勤しんでいるはずの沖田や土方が泥のように眠ったままだ。江戸からの帰りに休むことなく妖怪退治に駆り出されたのである。さすがに疲労が極限に達していたらしい。


 一方のアーシアである。

 精神的にはへとへとになっていたものの、肉体的にはそれほどではない。むしろ気晴らしを求めていた。八木邸の裏手に向かう白髪交じりの隊士の姿を認め、それに着いて土蔵に入っていく。


 土蔵と言っても商家が持つような白壁造りのものではない。土壁の質素なもので、作物や農機具の保管、各種作業などに使っている雑多な建物だ。八木邸に限らず、新選組が間借りしている壬生村の富農たちは何棟かの土蔵を所有しているのが普通であった。

 そしてこの土蔵には一抱えほどの大きな甕がいくつも並び、酸味を帯びた独特の匂いで満ちている。


「それでね、野菜をしっかり洗ったら、塩を掴んでごりごり擦り込むんですよ」

「ワア! そんなに塩を使うのデスネ!」

ああしあ・・・・さんが作ってるべえこん・・・・だって、わしはびっくりしましたよ。肉を塩で塗り固めるのかと思いました」


 土蔵の中では、大きなかめを前にして白髪交じりの男――井上源三郎が野菜を持ってにこにこ笑っていた。流行りを無視したそっけない髷、黒く日焼けした肌には深い皺がいくつも刻まれている。南蛮言葉が苦手なようで、アーシアやベーコンを未だに上手く発音できない。


 一見すると初老の好々爺に見えるが、こう見えてまだ三十代半ばだ。試衛館組では一番の年嵩で、若者ばかりでは気ばかり逸ってしまうだろうと心配して着いてきた。剣の腕はそこそこに過ぎないが、落ち着いた采配が見込まれて副長助勤に任じられている。新選組の縁の下の力持ち的な存在である。


「井上様、こちらの甕もかき回すのですか?」

「ええ、底からひっくり返す感じでお願いしますよ。水が出たら布巾で吸ってください。ああ、気持ちが悪ければわしがやりますんで、無理をせず」

「いえ、こういうものには慣れておりますから」


 アーシアとともに源三郎の作業を手伝っているのはミチであった。白魚のような繊手を躊躇なくぬか床に突っ込み、野菜を取り出してかき回している。白染めの上衣と紅色の袴という女官服でそんな仕事をするのはどう考えても不似合いなはずなのだが、これがなかなかどうして堂に入っている。


「キャアッ!?」


 各々が作業に没頭していると、アーシアが出し抜けに悲鳴を上げて尻餅をついた。何事かと見ると、どこかから飛んできたカマドウマがぬか床の上に鎮座していた。しっしっと手を振るが、ぬか床に足が絡んだようでその場でもぞもぞと動くだけである。


「あはは、アーシアさんも虫は苦手ですか。どれ、わしが除けましょう」源三郎が笑いながら腰を上げようとするのを、

「いえ、わたしが」ミチが遮って立ち上がった。

 そして両手でカマドウマをそっと包むと、そのまま土蔵の外へと放ってやった。


「ミチさんは、虫が大丈夫なんデスネ」

「ええ、慣れていますから。なんなら食べることもありましたよ」

「エエ!?」


 アーシアが驚きの声を上げるが、源三郎の方はとくにこれといった感想もない。イナゴや蜂の子などは子どもの頃からよく炙って食べていた。育ちの良さそうなミチが虫を食べるというのは少々意外だったが。


「アーシアさんは虫が苦手なんですか?」

「ウーン……どうなんデショウ? あまり見慣れなくッテ」

「ようろっぺと日ノ本じゃあ、虫の姿も違うんですかねえ」

「チョウチョやハチは同じだと思うんデスガ……」


 アーシアは故郷イタリアの風景を脳裏に浮かべようとする。

 青々と広がる麦畑やオリーブの木々。牧草を食む牛や羊の群れ。遠くに見える雪をかぶった山々。小ぶりな花が咲く野原を蝶や蜜蜂が舞い飛んでいる。その中にイナゴやカマドウマの姿はない。


 まるで油絵のような美しい風景。

 鮮烈な色彩に、どこかあやふやな輪郭。

 手触りの伴わない、夢の中の出来事のような……


「アーシア様、アーシア様? どうかなさいましたか?」

「あっ、イエ……。そ、そういえば、ミチ様の故郷はどんなところだったんデスカ?」


 ミチに声をかけられて、アーシアは慌てて話題を振った。

 アーシアの質問にミチは一瞬目を細め、それから唇を動かした。


「地獄でしたよ」

「エッ?」


 ミチの言葉に、アーシアは思わず聞き返した。

 このような少女が生まれ育った故郷が地獄など、そんなことがありえるのだろうか。


「なんて、言い過ぎですね。いまの都の天国のような華やかさに比べれば、ずっと地味でつまらないところだったんです。都は道行く人もみんなお洒落で、食べ物も美味しくて、風の薫もすっかり違うように感じます」


 そういって、ミチは微笑みを浮かべた。

 しかし、その瞳の奥には何か暗く重いものが横たわっているように感じられる。その理由が、アーシアにはわからない。


「アーシア様も、同様なのでは?」

「ハ、ハイ。そうかもしれマセン……」


 自分はどうだったろう。

 なぜ「そうかもしれない」と答えてしまったのだろう。

 自分は温暖で自然豊かな村で育ち、それからヴァチカンの神学校に通って――


「まあまあ、故郷の話はそんなところでいいじゃあありませんか。うひゃあっ、これは酸っぱい。漬け過ぎちまったかなあ。ああしあさん、こういうので料理は思い浮かびますかね?」


 源三郎の声がアーシアの意識を引き戻した。

 いつの間に刻んだのだろう。差し出された源三郎の手のひらには、細く刻まれた白い蕪が乗っていた。

 アーシアはそれを指で一口つまむ。


「むううっ、これは酸っぱいデス!」


 口に入れた瞬間、強烈な酸味が口の中を襲った。頬の内側が痛くなるほどに唾液が溢れ出てくる。下手な酢よりもよほど強烈だ。

 実のところ、これは源三郎の好物の古漬けだった。蕪を塩だけで長期間漬けているとどんどん酸味が強くなる。塩の味すら感じないほどに酸っぱくなったものが源三郎の好みなのだが、さすがにこれは試衛館の者たちでも受け付けず、源三郎専用となっている漬物だ。


 なぜわざわざそんなものを出したのか。

 源三郎は年嵩なだけに、田舎の苦労を知っている。長雨、旱魃、冷夏、虫害、大雪――百姓を襲う自然の猛威は一通りではない。豊かな農村が明くる年には地獄に変わる。そんなことを見聞きしていたからこそ、話題を切り替えようとしたまでだ。


「これは確かに……ものすごい酸味ですね」

「いやはや、わしとしたことがうっかりしていたようです」


 横から手を伸ばしたミチも文字通り酸っぱい顔をしている。

 それはそうだろう。こんな酸っぱい漬物を食べる者は自分の他にはいないのだ。源三郎も最初から料理に使えるなどとは思っていない。

 しかし――


「ナルホド、これは使えるかもしれマセン!」

「ええっ!?」


 アーシアが出し抜けに明るい顔で立ち上がるものだから、源三郎は思わず仰け反ってしまった。

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