夜九つ(深夜零時頃)を過ぎた頃、沖田一行は真っ暗な八木邸に帰り着くなり、泥で汚れた足を洗うのもそこそこに、囲炉裏を囲んでへたり込んだ。
「あー、さすがに疲れた……」
「オレたちゃ
「足が、それ以上に心が限界デス……」
例の退魔行の後、沖田たちはなおも油洞院に連れ回された。まずあの別邸の持ち主である公家の家で油洞院の活躍を語らされ、それから祇園、島原と連れ回された。遊女を骸骨のあやかしに見立て、沖田と土方は揃ってやられる。そこを油洞院が颯爽と現れてあやかしを見事退治する……といった茶番に散々突き合わされたのである。
さすがにアーシアは見ているだけで済んだが、死んだ目をした沖田と土方が遊女を相手に「やーらーれーたー」「たすけてー、ゆとういんさまー」などと声を上げている様子は見ているだけでキツい。すっかり精神がすり減らされてしまった。
「あの、お茶をどうぞ」
「ああ、ありがとう」
「助かるぜ」
「ありがとうございマス」
三人は湯呑みを受け取り、熱い茶をすすって「はあ」とため息をつく。それから一斉に顔を上げて湯呑みを差し出した主を見た。
「あれ、なんで君が屯所に?」
白湯を出したのは公家の家で助け出した女官だった。
やつれたその顔には弱々しい笑みが浮かんでいる。
「実は奉公していたお屋敷を追い出されてしまいまして……」
女官が語ったところによれば、助け出されて主人の屋敷に戻ったはいいものの、あやかしに触れて穢れた女官など要らぬと言われて追い出されてしまったのだそうだ。京の出身ではなく、地方から来たばかりのため、頼れる人間が誰もいない。途方に暮れて思いついたのが助けてくれた土方のことだった。
駄目で元々で屯所を訪ねてみると、将棋の駒のような顔をした男(おそらく近藤だろう)が話を聞いてくれ、屯所の下働きとして雇ってくれることが決まったそうだ。「トシのやつ、また
「ちっ、近藤さん、誤解してやがるな……」
「日頃の行いってやつですね」
「総司ぃ、何か言ったか?」
「いや、何も」
土方はぼりぼりと顎を掻きながら女官を見る。
色白で線が細いが、生粋の公家のようになよなよしたところはない。おそらく商家か何かの娘が行儀見習いを兼ねて公家屋敷に奉公に出されたのだろう。一通りの家事はこなせると思ってよいのだろうか。
男所帯の新選組に女手が足りていなかった。近在の百姓の女房たちに手伝いを頼んでいるのだが、彼女らにしても田畑の仕事が本業であり、新選組の世話にかかりきりというわけにはいかない。募集もかけているのだが、少し評判が改善されてきたとはいえ、つい最近まで壬生狼と恐れられていた組織である。奉公に来たがる女など滅多にいないのだ。
「ま、ありがてえっちゃありがてえのかな」
土方はズズッと白湯をすすりながら、「とはいえ近藤さんの誤解も解かなきゃめんどくせえな」と独りごちる。確かに土方は女にモテるし、それなりに遊んでもいるのだが、女を弄ぶような真似はしないのだ。どんな相手であってもきっぱり
「えーっと、まずアレだな。念を押しておきてえんだが、オレとあんたは知り合いなんてもんじゃねえ。行きがかりの行きずりもいいところだ。それはわかってるな?」
土方からすれば、たまたま仕事で命を助けただけのことである。そこに何の思い入れもない。妙に恩に着られてしまうのは面倒だし、この少女にも負担をかけるだろう。そう思っての言葉だったのだが、
「わあ、面と向かって行きずりって言い放つとか」
「土方サマ、さすがにそれはないと思いマス!」
沖田とアーシアに揃って冷たい目を向けられた。
女官も顔を伏せ、涙をこらえているように見える。
「だああっ! ちげえ! そういう意味じゃねえ! つか、おめえらはオレがこいつを助けるところも見てたろうが! 何をどうしてそんな誤解をする!」
「いや、トシさんは手が早いから」
「そうだな。確かにオレは手が早え。でもな! 骸骨どもに囲まれた、あの状況でどうにもこうにもなるわけねえだろうが!」
「それでもトシさんなら……」
「総司ぃ! おめえの中でオレは一体何なんだ!?」
どこまでも晴れない疑いに、土方はがしがしと頭を掻く。
お前からもなんとか言ってくれと女官に目を向けると、肩がぷるぷると震えていた。
「お、おい、まさかおめえさんまで滅茶苦茶なことを言い出さねえよな」
「い、いえ、すみません。その、うふふ、ごめんなさい。うふふふふ」
女官は腹を抱えて身体を折ってしまった。
何のことはない。土方たちのとんちんかんなやり取りに笑いをこらえきれなかったのだ。
「あー、ほら見ろ。オレが弄んで捨てたってんならこんな笑ってるわけがねえだろうが。オレとこいつが会ったのは今日が初めてで、もちろん何にもしてねえ。いい加減納得したな?」
「うーん、そこまで言うならひとまずは」
「ひとまずじゃねえ! ずっと納得しろ!」
「はーい」
沖田にしても本気で疑っていたわけではない。土方が慌てる様子がおかしくてからかっていただけなのだ。
それを察した土方が、口をへの字にして茶を啜る。まったくこいつは悪戯となるとタチが悪い。思い返せば土方の下手な俳句をからかったのも最初は沖田だった。
「ちっ、まったくよう。まあいい。ええっと……あんた、名前はなんて言うんだい?」
「ミチと申します」
「ミチさんか。美味い茶だ。お代わりをくれるかい」
「はい、ただいま」
ミチは土方から湯呑みを受け取り、土瓶から茶を注いだ。ちょっとした所作にもどことなく気品が漂うのはさすがは公家屋敷に奉公してだけはある。
土方は湯呑みを受け取ると、ずずっと一口すすって「美味い」と呟いた。
「それでミチさん、怪我はねえか? あの後はバタバタしちまって確認する間もなかったが」
「はい、おかげさまで」
「そうか、ならいい」
一応聞いたが、救出されて早々に屯所の手伝いをしているのだ。大きな怪我などはしていないだろう。
「こんな時間まで起きててくれたのかい?」
「はい、きっとお疲れでお帰りになられると思って」
「夜分まですまなかったな。オレたちも後は寝るだけだ。休んで構わねえぞ」
「いえ、命の恩人にそんな……。あの、改めてこのたびは危ないところを助けていただき本当にありがとうございました」
どうやら礼を言うためにこんな時刻までひとりで起きていたようだ。
三指をついて深々と頭を下げるミチに、土方は「ううん」と咳払いをしてから声をかけた。
「大したことじゃねえ。気にすんな。それより腹が減ったな。寝ねえんだったら茶漬けでもくれ」
「はい、ただいま」
立ち上がり、そそくさと台所に向かうミチの背中を見送りながら、土方は「たまにはまっとうな人助けも悪くねえ、か」と口の中でつぶやいた。