「痛っ、痛たたたた! 痛い、痛いって!」
麻布の白河藩屋敷の一角で若い男の悲鳴が響いた。
「無茶をするからデスヨ! モウ!」
沖田家の屋敷である。
片肌を脱いだ沖田が、アーシアの手当を受けていた。宮本武蔵から受けた全身の切り傷からはもちろん、包帯をほどいた左肩の銃創からも血が滲んでいる。ヒュースケンから受けた傷は完治していたわけではない。激しい戦いの最中で傷口が開いていたのだ。
「むっ、ぐう……。その、すまん、もう少し優しくだな……」
「あなたも何を言っているのですか。いつの間にか寝所を抜け出して!」
同じく隣で手当を受けているのはこの家の主、沖田林太郎である。
背中に重症を負っていたのだが、義弟沖田総司が捕物をすると聞いていてもたってもいられず陣頭指揮を買って出たのである。傷を受けてからまだ日も浅く、当然ながら完治などしていない。人面瘡との戦いの中で治りかかった傷から血が滲んでいた。
「もしも死んでしまったらどうするのデスカ! 死んじゃったらもう、手当てなんてしてあげないですカラネ!」
「……う、うん、ごめん」
そのときを線香をあげてくれよ、という軽口を思いついたが口にできる雰囲気ではない。アーシアの言うことももっともで、あのときに一対一の決着にこだわる必要などなかったのだ。新徴組の援軍が駆けつけ、その中には土方もいた。勝負を引き伸ばし、多勢で囲んで押しつぶすという選択もあったはずなのだ。
(だけど、そんなことは――)
――できなかった。
これはもう沖田の業としか言いようのないものかもしれない。剣を握って強敵と相対すると血が滾って抑えられなくなる。己の限界へ、限界のその先まで挑んでみたくなってしまうのだ。
宮本武蔵は異形となったが、その腕前は確かに達人のそれだった。六刀流などという変異がなくとも勝敗はどちらに転んでいたかはわからない。いや、むしろ二刀流のままのほうが勝ちを拾うのは難しかったのではないかとも思う。
武蔵の剣術の要は間違いなく守りであったはずだ。しかし、あのときの武蔵は守りに対する意識が薄まっていたと断言できる。最初の三段突きがあっさり決まったときに違和感があった。二刀流の宮本武蔵であったなら、必ずかわしきっただろうという確信があった。
(身体が丈夫すぎるのも考えものなのかな……)
思い返せば芹沢鴨や、その他の魔物たちにも同じ傾向があった気がする。人の身ではありえぬ生命力。魔核を貫かれねば死なぬという奢りが剣を鈍らせるのではないか、そんな風に思うのだ。
(ではあの男はどうなのだろう)
脳裏に浮かび上がったのは岡田以蔵の姿である。
あの痩身洋装の男は、見る限り只人の姿であった。しかし、その剣技はこれまでに見た誰よりも上回っていた。次にあの男と相対したとき、自分はあの男に勝てるのだろうか。頭の中で何百、何千と繰り返してきた戦いを再び繰り返す。
右上段八相からの竜尾剣。誘いの一刀は見切られ、返しの一刀もまたわずかに見をそらすだけで躱す。ここまでは予定通り。
返す刀を身を伏せてかいくぐり、袈裟懸けの一撃。これも当然の如くかわされる。その剣閃をなぞるような反撃の逆袈裟。こちらも日をひねって躱す。二撃、三撃と放たれる追撃を後ろに飛んでしのぎ、間合いを取り直す。
そして細く息を吐き、平晴眼の構え。小手調べはもう終わりだ。大地が弾けるほどに蹴って飛び出し、三段突き。
一段、二段、三段とすべてかわされ、その瞬間に脇差しを抜いての四段目。
左の切っ先が以蔵の喉元に迫り――
(この先がわからない)
あっさり貫くのではないかという気もする。
予想もつかぬ反撃をされるのではないかという気もする。
沖田の脳裏に描かれる以蔵の姿は常に黒い靄をまとっていた。いや、その顔かたちははっきり思い浮かべられるのだ。しかし、いざ動き始めると何をするのかまるで読めない。剣を交わしたのはたった一度のことだというのに、どこまでもどこまでも底の読めない男であった。
「ところでよぉ、あの宮本武蔵ってのが変化したのは一体何だったんだ?」
手当を受ける沖田と林太郎の横で、煙管を片手に胡座をかいているのは土方歳三だった。
「さあ、リョウメンスクナ? とか言ってましたけど」
「両面宿儺?」
沖田の返事に反応したのは真琴だった。
「両面宿儺と申せば、記紀に伝わる怪物だったかと。仁徳天皇の世に現れ、ひとつの胴に二つの頭、四本の腕、四本の足。人外の怪力と軽捷に奢り、飛騨国を荒らし回っていたのだとか」
「へえ、さすがは大大名のお姫様だ。学があるねえ」
「そういう物言いはやめていただきたいですな」
「おっと、こりゃ失礼。こっちは学がないもんでね」
真琴に睨みつけられ、土方は両手を上げてひらひらと振る。
「〈ネクロノミコン〉にはそんな怪物を操る技もあるの?」
「双頭の魔物はいくつもいるのデスガ……リョウメンスクナというのは聞いたがことがありマセン……」
沖田の問いに、アーシアが頭を振る。
宮本武蔵の一件を経て、もはや魔物の存在を隠す意味はなくなった。沖田が受けた密命、アーシアが帯びた使命、そして魔人坂本龍馬。それらのことはすべて伝えていた。
「日本の魔物まで敵になる、それが本当になったのかもしれマセン……」
アーシアが言っているのは居鷹村での事件を念頭に置いたことだ。
〈ネクロノミコン〉に伝わる魔術は、そして坂本龍馬が操る魔術はヴァチカンが知る範囲を超えているかもしれない。アーシアの持つ最大の武器は魔物と魔術に対する知識である。それが通用しない相手が続々と現れるかもしれないのだ。
しかし、それを呵々と笑い飛ばす者たちがいた。
「ははっ! そのうち土蜘蛛だの八岐之大蛇なんてのも出てくるかもな」
「土蜘蛛はともかく、八岐之大蛇は勘弁してほしいなあ。大きすぎるでしょ」
「尻尾を裂けば名刀が出てくるかもしれねえぞ」
「うーん、それなら戦ってもいいかもなあ」
沖田総司、そして土方歳三である。
そういえば彼らは初めて魔物に対したときから、まるで怖じけるところがなかった。彼らが率いる男たちも同様である。これほどの勇はヴァチカンの聖騎士たちにもなかったものだ。
「それがサムライというものなのデショウカ……」
そんなアーシアのつぶやきに、林太郎と真琴は「一緒にされても困る……」という顔をしていたのだが、幸か不幸かアーシアがそれに気がつくことはなかった。