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第79話 十文字槍

 宮本武蔵と宝蔵院流との出会いは慶長九年(1604年)、宮本武蔵が二十一歳の頃であったという。武蔵は京の一乗寺で吉岡一門を破ったが、おかげで都中に敵が溢れてしまった。ほとぼりが冷めるまではと奈良へ脱出した先のことであった。


 宝蔵院に宿を借りた武蔵は、開山以来の天稟と名高い胤舜いんしゅんと立合うことになる。互いに木剣、木槍を以っての仕合であったが、二本立合って二度とも引き分けた。


 その宝蔵院が使う得物が十文字槍である。

 両刃を十字に組み合わせた穂を持つその槍は、「突けば槍、薙げば薙刀、引けば鎌、とにもかくにも外れあらまし」と詠われるほどに評判で、槍の弱点をよく考えた上で、それを補う作りをしている。とくに引く際の隙がなくなるのが大きい。槍に向かう際は突いたあとの引き手に合わせて踏み込むのが定石だが、戻る刃で背後から切りつけられてしまうのだ。


「――と、どうせそんな話を鵜呑みにしてのにわか仕込みじゃろう」


 武蔵は二刀をすらりと抜くと、切っ先をすぼめるように上段に構えて真琴に向き合った。沖田が命名したところの上段八の字の構えだ。


「ゆうておくがな、胤舜などという小僧は本気を出せば何ということもなかったのだ。宿を借りておるのに家主の面子を潰す者もおるまい」

「仕合う前から負け惜しみか。剣よりも講釈の方が得意と見える」

「くくく、そう思いたければ思え。儂も胤舜などと互角と見られて迷惑だったのだ。十文字槍破り、ご覧に入れて進ぜよう」


 武蔵は逆八の字のままじりじりと間合いを詰めていく。

 得も言われぬ圧力に、真琴は一瞬退きそうになるが、「えい!」と自分を奮い立たせて踏みとどまる。間合いが徐々に詰まり、ぶつかり合う剣気が濃密な渦を巻く。


「さあさあ広い間合いは槍の手番ぞ。懐に入られてからでは何も出来ぬぞ。さあさあ、早く仕掛けて来ぬか」

「言われなくともっ!」


 十文字槍が風を切って飛び出した。

 狙いは武蔵の喉元。下手に左右に避けたところで、横刃が頸動脈を切り裂くだろう必中の軌道。

 しかし――


「ぬうん!」


 武蔵は構わず一歩前に踏み出すと、両刀を思い切り振り下ろした。

 真琴の身体には到底届かぬ間合い。狙いは十文字槍の横刃であった。

 左右に広いこの槍は迎撃が容易であり、撃ち合えば梃子の関係で刀の方が有利となる。そのうえ、膂力はもともと武蔵の方が優れている。哀れ十文字槍は羽虫の如く叩き落され地面に屍を晒すのみ――


「何ィ!?」


 とはならなかった。

 二刀とぶつかった瞬間、ほとんどろくな手応えもなく横刃が折れて地面に突き刺さった。無事な穂先はそのまま武蔵めがけて伸びている。


「ぬああっ!」


 武蔵は咄嗟に両刀を切り返し、今度は穂先を跳ね上げた。

 天然理心流竜尾剣にも劣らぬ神速。あるいは巌流佐々木小次郎の燕返しとはこのようなものだったのだろうか。

 ぎぃんと甲高い音とともに火花が散り、槍の穂先が宙を舞う。

 しかし、またしても手応えが異様に軽い。

 宙に舞っていたのは、槍の穂先だけだったのだ。


「ぐおおっ!」


 穂を失った槍の柄が喉元に再び伸びていた。

 武蔵は体を反らしてなんとかそれをかわしきる。


「ええいっ!!」


 今度は真琴が気合を入れた。

 体を反らして前に出た胸に向け、三段目の突きを放つ。

 どすっ、と鈍い手応えがして、槍の柄が見事に武蔵の鳩尾に突き刺さっていた。穂がないから致命傷にはならないが、常人であれば悶絶必至の一撃である。


 さしもの武蔵も堪えたか。

 上体を前かがみに折って「ぐう……」とうめき声を洩らした。


「お、おい、先生が一本取られたぞ」

「い、いや、これは真剣勝負だ。命を取られるまで負けではない」

「しかし今の一撃では……」

「まさか女ごときに敗れるなど……」


 立合いを見守っていた浪人たちに動揺が走った。

 しかし、武蔵が俯いたまま「くく……くくくく……」と低い声で笑い始めると、水を打ったように口をつぐんだ。


「くくく、大したペテンだ。十文字の刃はすべてが囮。始めから三度目の突きで勝負を決するつもりであったか」

「まさか卑怯と言うのか。貴様の言う戯れの芸・・・・に付き合ってやったまでだ。貴様ごときに王道の剣を見せるまでもない」


 真琴の言葉は無論はったりである。

 七日やそこらの修行で実力差を覆せるのなら地道な鍛錬など不要だ。せいぜい身につけられるのは一つの技のみ。それが沖田直伝の三段突きであったのだが、威力も精度も当然まだまだ未熟である。その差を埋めるために沖田が発案したのがこの十文字槍もどきという奇策であった。


 この策を受け入れるのには抵抗があったが、「戦に卑怯も堂々もない。むしろ奇策は称えられるべきものだ。日本武尊やまとたける熊襲くまそ征伐、源義経の逆落とし、木曽義仲の火牛の計、秀吉の一夜城。英雄はみんな奇策を行い、見事な策だと称えられてるじゃないか」と沖田に諭されては反論もできない。

 そもそも宮本武蔵に勝てるよう鍛えてくれと無茶を願ったのは自分なのだ。


 然して策は成り、宮本武蔵は目の前で身体を折っている。

 追い打ちで頭を砕くのも容易かったろうが、そこまでするつもりもない。女侍ごときに敗れたとあっては、今後武蔵が何を言おうと耳を傾ける者はいないだろう。これで十分灸は据えた。


「卑怯などとは言うまいよ。お主は策を仕掛け、儂はまんまとしてやられた。お主の勝ちだ。大したものよ」


 素直に負けを認める言葉に、浪人たちがさらに動揺する。


「せ、先生! 本気ですか!?」

「何が先生だ。いまさら潔くしてみせたところで女に負けた事実は変わらん」

「まったく、なぜこんな男に弟子入りしようと思ったのか。自分で自分が情けなくなるわ」


 動揺は怒りへと変わり、罵倒となって吐き出される。

 それを一身に浴びながら、なおも武蔵は不敵に笑った。


「なあに、安心せい。この宮本武蔵の生涯不敗、こんなところで終わりにはせぬわ」

「何を言ってやがる。たったいま目の前で……あががががっ!?」


 浪人のひとりが頭を抱えて苦しみ始める。

 押さえた指の隙間から膨らんだ肉が溢れ、芋虫のように蠢き始める。


「ひっ、ひぃぃぃ。ひぎっ」

「な、なんだごりゃぁぁあ゛あ゛」

「ぐあっ、がぁぁあ゛ぁあ゛」


 それがきっかけだったかのように、十人余りいた浪人たちが一斉に頭を抱えて苦しみだした。目玉がこぼれ落ちんばかりに目を見開き、鼻から、耳から、鮮血がぽたぽたと垂れ落ちる。


「な、なんだこれは!? 武蔵、貴様の仕業か!?」

「左様ッ! 宮本武蔵の敗北を目にした者など、この世におってはならぬのだッ!!」


 叫びとともに、武蔵ががばりと顔を上げた。

 顔の中心にひび割れのような線が走り、みしりみしりと頭が左右に裂けていく。割れ目から肉が盛り上がり、ふたつの頭が形成されていく。


「両面宿儺と言ったかのう。道満よ、予定がちぃと早まったが始めさせてもらうぞッ!!」


 二つの口が、牙を剥いて同時に吠えた。

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