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第78話 二天vs柳生

「頼もう! この寺に宮本武蔵がいると聞いた!」


 翌朝のことである。

 武蔵の耳に自分を呼ばわる声が聞こえた。昨夜の残飯にたかって飛び回る蝿を箸でつまむという「芸」を披露し、浪人どもの称賛を浴びていた最中のことである。


「先生のお噂を聞きつけた者ですかな」

「弟子入りに来た……という声色ではございませぬが」

「身の程知らずが道場破りに来たのかもしれませんな」


 おべっかを使う浪人者の一人に顎で指示し、寺の戸板を開けさせる。

 すると寺の外に三人の男女が立っていた。


 一人は先日立合った沖田総司だ。先日の決着をつけに来たのか……と思い軽く殺気を飛ばしてみるが、のれんのように手応えがない。

 その隣に立っているのはアーシアとかいう異人の娘だ。坂本龍馬は彼女を捕えようとしているが、武蔵が受けた命令には含まれておらず、武蔵自身もやる気がない。女を攫うところなど誰かに見られれば名が地に落ちてしまう。

 最後の一人――整った顔立ちで、切れ長な瞳の若侍であった。背中に布で包まれた長物を背負い、殺気を含んだ鋭い視線をこちらに向けている。


「なんじゃ、自分ではかなわんと思って助っ人を呼んできたのか」

「そうそう、そんなところ」


 沖田を挑発してみるが、飄々と受け流される。

 まったくやりづらい若造だ。舌打ちしつつ、どうやら本命らしいもう一人の若侍に改めて視線を向ける。佇まいからそれなりに遣う・・のは見て取れる。背中の得物は槍だろうか。それにしては先端が大きく膨らんでいる。そんなことより――


「――女か」


 武蔵は瓢箪を引き寄せ、酒を呷る。

 男の髷をし、男の服を着ているが、あれは女だ。確かめずとも骨を見ればわかる。


「女とはやらん。勝っても得るものがない。それどころか名を落とす」


 そしてごろんと寝転がった。


「女相手に戦う前から尻尾を巻くか。天下無双が聞いて呆れるな」

「なんとでも申せ。たかが女にきゃんきゃん吠えられても五月蝿いだけでなんとも思わんわ」


 男装の女侍が挑発してくるが、こんなものを相手にしても仕方がない。

 それよりも沖田だ。先日は知らなかったがその剣名は江戸でも鳴り響いているらしい。奴を倒せば宮本武蔵の名はさらに大きく高まるだろう。そうと知っていれば逃さなかったものを。どうすれば沖田を勝負の場に引きずり出せるか、それを考え始める。


「へへへ、先生はお忙しいんだ。帰った帰った。それに姉ちゃん、きれいな顔してやっとう・・・・なんてもったいねえぜ。棒遊びがしたいんなら俺のを貸してやるぜ」

「おいおい、てめぇの貧相な小刀じゃ遊び甲斐もねえだろう。俺の斬馬刀を貸してやるよ」


 武蔵が相手をしないと見て、浪人が二人立ち上がった。

 にやにやと下卑た笑いを浮かべ、女侍へとにじり寄っていく。


「おっ、よく見りゃこっちの小娘も可愛いツラぁしてるじゃねえか」


 先ほどまで干物をむしっていた脂まみれの黒い指がアーシアに向かって伸ばされ――


「ぎゃあっ!?」


 浪人は悲鳴を上げて地面に転がった。

 女侍が一歩歩み寄った刹那の出来事だった。


「て、てめぇ! 何をしやがった! ぐわあっ!?」


 もう一人の浪人が女侍に掴みかかるが、こちらも悲鳴を上げて地面に転がる。

 二人とも何をされたかもわからないまま、尻餅をついたまま目を白黒させている。


 武蔵の目には一連の動きがすべて視えていた。

 柔の技だ。一回り体格に勝る男たちを、徒手空拳で一瞬で投げ飛ばしたのだ。

 武蔵は上体を起こし、眉間に皺を寄せて女侍をまじまじと見る。

 女侍の実力に驚いたわけではない。佇まいから、その程度はやるだろうと思っていた。有象無象の浪人程度は容易くあしらうだろう。

 気になったのは技そのものだ。

 どこかで見覚えがある。

 そして思い出そうとすると頭の芯がちりちりする。


「そうか、柳生か」


 柳生の無刀取り。

 極意のように語られているが、実態は何のことはない。柳生流における徒手空拳の技の体系である――と武蔵は認識している。柳生の剣は守りの剣だ。無腰のときに襲撃された際の備えとして、やわらにも力を入れていた。


「貴様、柳生に縁のある者か」


 立ち上がって縁側から飛び降りる。

 女侍は武蔵の目を見据えながら、武蔵にだけ聞こえる小声で告げた。


「大和柳生藩十代藩主柳生俊章としあきらが末娘、柳生真琴にござる」

「ほう」


 武蔵の双眸が、獲物を見つけた虎のそれになる。

 唇が歪み、白い歯が牙のように剥かれる。

 身体の内から熱が膨れ上がり、全身を巡ってそして弾ける。

 女侍――柳生真琴の頬を汗が一筋伝った。

 抑えられずに洩らした剣気に打たれたのだろう。

 しかし、一歩も退かなかったのは大したものだ。

 背後の浪人どもなどは、直接剣気を向けられたわけでもないのに青ざめているというのに。


「よかろう。一手指南してやろう」

「否。指南など不要」


 真琴が一歩前に出る。


「真剣勝負を申し込む。まさか逃げまいな?」

「ほう」


 武蔵の頬が引きつる。凶々しい笑みが満面に広がる。


「真剣とは汚いぞ。指が飛び、腕が落ち、足が刻まれ、はらわたが漏れ、歯が折れ、鼻が削がれ、目玉が飛び出し、脳みそがうどん玉のようにでろんとこぼれるぞ。貴様のような可憐な女子が、糞と小便の混じった鉄さび臭いばらばらの肉の塊になるのだぞ。それでよいのだな?」


 一刀両断にしてやろう、などとは言わない。

 数多の戦場と殺し合いの中で見た、もっとも汚く恐ろしいものを教えてやる。二百余年の平和にあぐらをかいた柳生流に、真剣勝負などできる勇気はあるのか。

 真琴の白い喉がごくりと動いた。そして、細いおとがいがゆっくりと頷く。


「くくくく……くく……くはっ! はははははは!!」


 武蔵は狂ったように笑う。

 あの憎き柳生流がもう現れるとは。いくら市中で挑発を繰り返したところで、江戸城に斬り込むまではまみえることはないと思っていたのだ。将軍家御留流とはそれほどに重い。戦国の気風が濃い二百余年前の柳生但馬でさえ、武蔵との対決を避け続けた。直接刃を交わしさえすれば、叩きのめしてやったものを……!


 所詮は女。腕前は柳生の中でも木っ端であろう。

 しかし血筋は上等も最上等だ。十代藩主なにがしの姫であるという。

 その姫が無惨に敗北し、辱められればいかに柳生とて黙ったままではいられまい。上手く使えば本丸を引きずり出すのも可能となるかもしれない。


「刀ァ!」

「はっ、はいっ!」


 武蔵が怒鳴ると、浪人の一人が飛び上がって武蔵の差料を持ってきた。

 大小を左右の腰に計四本、腰帯に差す。


「さて、参ろうか。お主の得物は何だ?」


 真琴が背中の長物を手に取って覆い布を引き剥がす。

 姿を表したそれに、武蔵の目が剥かれた。


「貴様……柳生を名乗っておきながら、ふざけておるのか」


 あらわになった得物の先端には、十字のやいばが備わっていた。

 十文字槍――かつて武蔵と仕合い、引き分けとなった宝蔵院流槍術の得物であった。

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