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第77話 武蔵と道満

 沖田と武蔵の立合いから七日が過ぎた。

 浅草から大川を渡った先。田園の広がる向島の一角、雑木林の中にうっそりと埋もれた寺があった。屋根瓦はひび割れて歯抜けており、庇には朽ちた蜂の巣がいくつもこびりついている。障子戸には障子紙の代わりに蜘蛛の巣が張っていて冷たい夜風が素通しだ。

 うら寂れた外観とは裏腹に、寺の中からは明かりが漏れ、男たちの飲み騒ぐ声が響いている。


 本堂には古びて苔むした阿修羅像。三面のうち一面が剥がれ落ち、ささくれた木地が痛々しくも露わになっている。

 阿修羅の哀れみを帯びた視線の先には、坊主頭の赤毛の男があぐらをかいて、瓢箪の酒を呷っている。彼を囲んで酒を飲み、騒いでいるのは月代も剃らぬ浪人者の群れ。


「宮本先生! やはり公儀は腰抜け揃いですな!」

「二天廻厭かいえん流こそが天下の剣! 柳生など恐るるに足らず!」

「あんな腑抜けどもが仕切っておるから異国に怯えて言いなりになるのだ。この日本は神の国! 神州を穢す紅毛どもは一人残らず叩き出すのだ!」

「その通り! 攘夷だ、攘夷!」

「攘夷! 攘夷! 攘夷! 攘夷!」


 武蔵の剣名に引かれて集まってきた浪士たちだった。

 武蔵は例の路上勝負や道場破りを繰り返しており、狙ったのは門弟に佐幕派の役人が多い道場ばかり。それが浪士たちの評判を呼んだ。おまけに押しかければ酒も食事も奢ってくれる太っ腹だ。人気にならないわけがない。


 気がつけば武蔵が宿にしている廃寺はすっかり浪士たちの巣窟となっていた。酒を飲んでは攘夷や倒幕を声高に放言する。市中では大っぴらには言えないことばかりだ。


「新徴組のへなちょこどもも、先生には手出しができんようですな」

「手を焼いた辻斬りを代わりに捕らえてもらったくせに、恩知らずにも刀を向けたと言うではないか」

「そのうえに返り討ちだ。まったく情けない連中よのう」

「組頭の沖田林太郎も一蹴したそうではないか。沖田総司の義兄という話だが、あの分では義弟の方も噂倒れなのだろう」


 堂内ががははと下品な笑い声で満ちる。

 京での新選組がそうであるように、江戸では新徴組が浪士たちの「と怨嗟の的となっている。その新徴組を一人で何人も打ち負かしたとあって、その点でも武蔵は浪士たちの声望を集めていた。


 そんな浪人たちの称賛を浴びながら、武蔵は昔を思い出す。

 肥後藩にいた頃は毎日がこの調子であった。戦どころか真剣の斬り合いもしたことがない若者どもが集まり、宮本先生、宮本先生、と教えを請いに来るのだ。といっても本心から弟子入りしたい者など少ない。ほどほどに尾ひれをつけた武勇伝やそれらしい心構えを説いてやると、それだけで一皮むけたつもりになって帰っていくのだ。


 馬鹿らしい。

 そう思いつつも、武蔵はこれがやめられぬ。

 褒められ、称えられ、尊敬の目を向けられると会陰から背筋までぞくぞくと痺れるような快感が走る。晩年に酒や女を断って仙人じみた暮らしができたのも、いずれもこの快感には勝らなかったからというだけのことに過ぎない。


「先生! 新徴組の野郎どもをからかってやったときの話をお願いしますよ!」

「むう、またか」

「そうおっしゃらず、ぜひぜひ!」

「致し方ないのう」


 もったいぶるが、本心では語りたくてたまらない。

 さて、今宵も一席ぶってやろうと咳払いをしたときだった。


 時が凍りついた。


 ざわめきが静寂に変わり、浪人たちの動きがぴたりと止まった。

 それだけではない。傾けた徳利から注がれる酒も縒れた細縄のように止まり、丸い飛沫が空中にとどまっている。

 灯明の蝋燭の火だけが怪しく揺らめき、浪人たちの影が生者の代わりに怪しく踊った。


「道満殿か。何度も見ても面妖な技よの」

「いえ~す、あーしだよ~」


 障子戸が音もなくすうっと開き、艶やかな着物の少女が現れた、色とりどりの十二単を花魁のように着崩して、白い肩ばかりか小枝のような鎖骨まで露わになっている。道満と呼ばれた少女はしゃなりしゃなりと床板を滑り、武蔵にしなだれかかるようにして座る。武蔵の鼻腔を濃密な花の香りがくすぐった。


「けっこー集めたね~。おねーさん見直しちゃった~」

「何を申されるか。儂は天下無双宮本武蔵よ。いつかであれば一声かければ山向こうまで伸びる大行列ができたであろうよ」

「ふ~ん。すっごーい」


 言葉とは裏腹に、道満はまるで興味がなさそうだった。

 かつての栄華栄達をあっさりと流されて、武蔵は思わず顔をしかめる。


「で、いま声をかけたらどんな感じなのー?」

「今か。今であれば百、いや百五十は集まろう」

「へ~、百人も~。すごいねー」


 武蔵は舌打ちし、瓢箪の酒を呷る。


「それで、何をしに参ったのだ」

「何しにってひっどーい。いちお、心配してきたのに~」

「心配とは何のだ。このとおり、浪人集めは順調だぞ」

「うーんと、種蒔きの方は心配してないんだけど~」


 道満は杯を手に取ると、武蔵の眼前にずいと突き出す。

 武蔵はふうとため息をつき、盃に酒を注いだ。

 道満は盃に口をつけてから、花びらのような唇をちろりと舐めた。


「身体の方は馴染んできたぁ? けっこー強いまがモノだから、おねーさん心配で~」

「ふん、それこそ無用な心配よ。昔話の魑魅魍魎など、この儂が恐れるものか」

「ふーん、ならいいけど。ま、おねーさん的には呑まれたら呑まれたでいいんだけどねー」

「誰が呑まれるか」


 どうもこの女は掴み所がない。

 恐るべき妖術師であることはわかる。しかし、蘆屋道満とは男ではなかったか。しかも老人であったはずである。まあ、年齢に関しては武蔵自身が若返ったように、どうとでもなるようなのだが。


「それにしてもおサムライさんっていうのはおもしろいね~。剣が強いだけで偉いんだからー」


 道満は杯を片手に、凍りついた浪人たちに半眼を向ける。

 まるで珍獣を眺めるような目だ。


「武士が武をたのんで何がおかしい」

「あーしの時代にはいなかったからね~。チャンバラなんて下郎の仕事だったからぁ。征夷大将軍なんて、カビの生えた官職が復活して、おまけに日本で一番偉いだなんてウケる~」

「将軍がカビの生えた官職だと?」

「あーしの頃には二百年は放置されてたもーん」


 将軍がいない世など武蔵には想像が難しい。

 戦国の世はその座を奪い合って始まり、そしてそれを勝ち取った徳川が終わらせたのではないか。武蔵にとって、将軍とはこの世の栄華の頂点なのだ。


「道満殿、お主は一体何を求めて坂本殿に組みしたのだ」

「うふふ、あーしの望みが気になるのー?」


 道満の形のよい唇が歪み、尖った犬歯が覗く。

 白魚のような指が伸び、武蔵の唇に押し当てられた。

 武蔵にはなぜかそれが避けられなかった。


「乙女のヒ・ミ・ツ」


 道満はきゃははと笑って、闇に溶けるように消えていった。

 凍りついていた時が再び動き出し、浪人たちが何事もなかったように騒ぎ始める。


「……まったく、胸糞が悪い」

「せ、先生? 何か気分を害するようなことでも申しましたでしょうか?」

「あいや、独り言だ。さて、新徴組の末成うらなりどもを蹴散らしてやった話だったかのう」


 武蔵は大げさに咳払いをすると、ひときわ声を張り上げて武勇伝を語り始めた。

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