「何じゃ、本身で来ぬのか」
竹刀を手にした沖田に、武蔵は意外そうに目を丸くしている。
先ほどまで吹き荒れていた暴風の如き剣気が凪ぎ、張り詰めていた野次馬たちがほっとため息をついた。
「こんな昼日中に真剣を抜いてチャンバラしてたらお縄だよ。あんたが生きてた時代とは違うんだ」
「つまらん世じゃの。これも柳生流が幅を利かすからじゃ」
武蔵はぶつくさと文句を言いながら、己自身も竹刀を拾う。左右の手に一本ずつ。やはり二刀流で応じるらしい。
「軽くて頼りない。無駄に尺が長い。こんなもので修練になるものか」
武蔵が長竹刀を小枝のようにぶんぶんと振り回すと、竹刀が鞭のように撓る。並の者では両手で振ってもこうはならない。恐るべき膂力と剣速であった。
余談であるが、竹刀の発明は柳生流によるものと言われている。
木刀での稽古は大怪我をすることもあるし、当たりどころが悪ければ死ぬこともある。そのため竹刀の登場以前の剣術修行は据え物への打ち込みと形稽古、試合では寸止めという形式が多かった。しかし寸止めでは技量が伸びぬということで竹刀を生み出し、それにより剣術は様々な変化発展を遂げたのだが――大前提に命の取り合いがある武蔵には、生ぬるいものにしか見えなかったらしい。
「さて、一手仕ろうか」
寿司の屋台を背にして、両手に竹刀を提げた武蔵が立つ。
沖田はそれに向かい合い、竹刀を正眼に構えた。天然理心流の平晴眼ではない、どこの流派にもある基本の構えだ。
沖田はじりじりと間合いを詰め、ぴたりと止まる。
睨み合ったまま、静かに時間が過ぎていく。
「何やってんだ、ありゃ?」
「俺たちゃにらめっこを見物しに来たわけじゃねえぞ」
「馬鹿野郎。達人同士の駆け引きってやつだろうが。……たぶん」
「何が駆け引きだ。赤坊主の方はぼーっと突っ立ってるだけじゃねえか」
すぐにでも打ち合いが始まるのかと期待していた野次馬たちの間にさざなみのようにざわめきが広がり始めた。
「なんじゃ、打ち込んでこなければ指南もできんぞ」
野次馬の不満に呼応するように、武蔵が口を開く。
その顔にはあからさまに呆れたような苦笑いが浮かんでいた。
「何、これだけでもずいぶん勉強になるよ」
当然のことだが、これは単なるにらみ合いなどではない。
沖田が立っているのはちょうど互いの間合いの境界線だった。野次馬には見て取れぬわずかな動きで武蔵を誘っていたのだ。
武蔵とて、沖田が何をしているのかなど百も承知だ。
軽口は単なる挑発である。
(まるで柳の古木だな)
打ち込む隙を探りつつ、沖田は内心で舌を巻いていた。
武蔵は二刀をだらりと垂らし、茫洋と立っているだけに見える。素人目には隙だらけだろう。しかし、沖田が動くたびに重心や竹刀を握る手の内をわずかに変化させているのだ。どこから打ち込まれようとも柳のようにしなって反撃を加えてくる姿が容易に脳裏に浮かぶ。
とはいえ、正面から誘いをかけているだけでは進展がない。沖田はすり足でじりじりと横に動いていく。間合いの縁をなぞって右に、左に。重心のブレなどから分かる情報も多い――のだが。
「すごいな、まったくブレない。完璧な両利きだ。生まれつき?」
「生まれつきの両利きなどあるか。鍛錬の成果だ」
「どんな鍛錬をするんだ?」
「右手を縛って一年暮らせ」
「それだと右手が萎えちゃわない?」
「萎えんように動かすときは動かせ」
「曖昧だなあ」
ずりずりとカニ歩きをしていると武蔵のつま先が一瞬だけぴくりと動いた。足指を曲げたのだ。足袋越しだが、常人に比べてずっと長いことが見て取れた。
沖田は重心を前に倒し、強めの誘いをかける。武蔵の上体に変化はない。しかし、右足のつま先だけが半寸(約1.5センチ)ほど外に開いた。
「なるほどね。大体わかったよ」
沖田は竹刀を下げると、半身になって後ろを向いた。
その視線の先には日本橋がかかっている。
「あんたが鎖分銅を使うのはわかってた。でも、どうやって投げたのかだけがわからなかったんだよね」
沖田はにっと爽やかな笑みを浮かべる。
武蔵は太い片眉を釣り上げ、「ほう」と息をついた。
「では、もったいぶっても致し方あるまいか」
武蔵の右足が消えた。
否、目にも止まらぬ速度で蹴り上げたのだ。
沖田は素早く身を屈め、顔面に向けて飛んできた何かをかわす。何かは日本橋の欄干に激突し、ギャインと甲高い金属音を立てて正体を表した。
「まったく、器用な足だな」
「これも鍛錬の成果よ」
武蔵が突き出した右足のつま先から伸びていたのは、細く長い鎖に繋がれた分銅であった。武蔵のつま先から欄干まで、まるで墨壷で引いたように真っ黒な細線が伸びている。
再び武蔵の右足が消える。
沖田は今度は大きく横っ飛びした。
今の今まで沖田が立っていた場所を、びゅんと風を切り裂いて鎖が通り過ぎていく。武蔵が鎖を引いたのだ。
「むう、これもかわすか」
「竹刀で受けたら壊れちゃいそうだからね」
巻取りの絡繰りでも仕込んでいるのか、引いた鎖はすでにどこにも見えなくなっている。新徴組はこの技でやられたのだろう。二刀流に注意を逸らされているところに、こんな
「それにしても、よかったの? こんな簡単に手妻のタネを明かしちゃって」
「何、所詮は戯れの芸よ」
武蔵は牙を剥くように笑う。
両手の竹刀を持ち上げて逆八の字の下段に構えた。
「お主はそこらの浪人とはわけが違いそうだ。せいぜい儂の名を上げる手伝いをしてもらおう」
「ああ、それなんだけど」
沖田は竹刀を倒れた浪人に向けて放り捨て、武蔵に背を向ける。
「手妻は飽きたからさ。そろそろ朝飯でも食べに行くよ」
「なッ!? 貴様ッ! 待たんかッ!!」
追いかけようとする武蔵に、沖田は振り向きざまに礫を投げつけた。
武蔵の竹刀が唸り、ぎんっと鈍い音とともにそれを叩き落とす。
「ふん、これが貴様の手妻か。こんなつまらん技で……」
「お代、忘れてたから。まけてくれてありがとう」
「何を?」
撃ち落とした礫に目をやると、地面に一分銀が突き刺さっている。
再び視線を上げたとき、沖田の姿は野次馬に紛れて見えなくなっていた。