「お待たせしやした」
「うん、ありがとう」
沖田は弥次郎から瓢箪を受け取ると、ちゃぷちゃぷと鳴らしてから、
「ほら、なみなみいっぱいだ」と武蔵に放って寄越した。
「ふはは、かたじけない」
武蔵は瓢箪を空中で掴み、それを煽ろうとして、はたと手を止める。
沖田が細い目でこちらを見つめているのに気がついたのだ。
「こういうのって差しつ差されつするもんじゃないの?」
「おおっと、これは失礼致した。喉の渇きに焦ってしもうたようだ」
武蔵は懐から何かを取り出すと沖田に放った。
それは赤漆で塗られた盃だった。欠けはもちろん曇りもなく、かすかに金箔が散らされている。華やかでありながら侘びた風情に、この手のものには疎い沖田にも一目で名品であることがわかった。
「良い出来だろう。儂が作ったのだ。ほれ、酒を注ぐと金箔の輝きが浮かんで星空のようになる……が、こう明るい昼間ではよくわからんな」
沖田は武蔵の正面にでんと腰を下ろし、盃に酒を受けながら、
「へえ、見た目によらず器用なんだな。俺と同じ剣術馬鹿だと思ってたのに」
「馬鹿者。それでは出世が叶わん。書画に茶の湯に和歌に能、陶芸、作刀、なんでもできんと一流の武芸者とは言えん。ただの剣術馬鹿じゃ」
令和の現代でこそ文化人としての一面を知られる武蔵であるが、沖田の時代にはあまり知られていなかった。晩年を過ごした肥後でこそ詳しい事績が語り継がれていたが、遠く江戸では講談で活躍する剣豪という印象しかないのだ。
武蔵は盃をもう一つ取り出すと、手酌で一杯飲み干した。唇を舐めて舌鼓を打つ。
「うむ、良い酒だ。実はさっきまで飲んでいたのはずいぶんと薄まっていたようでな。どうも酒屋に
「そりゃそんな山法師みたいな格好してればね」
「ははは! それはそうじゃのう!」
武蔵は毛皮の襟を掴み、ばさばさと揺らして笑う。
白い埃が辺りに舞った。
「して、聞きたいことがあるそうじゃのう。まずは二天一流ではなく、二天
「
二条城に
「然り。それがわかっておれば話は早いの。では二天とは何かわかるか?」
「二刀流のことじゃないの?」
沖田の答えに、武蔵はくくくと含み笑いをし、腰の刀をぱたぱたと叩いた。
「こんなものが『天』などという大層なものかよ。日本における二つの天。それは天皇家と将軍家じゃ。二天を仰ぐ一つの流派、それが二天一流と名付けた理由じゃの」
「はあ、案外殊勝じゃないか」
「ただの方便、おべっかに過ぎんわ」
武蔵はがははと豪快に笑い、それから苦い顔になる。
「あの時代では朝廷か徳川か、いずれかに媚びを売るしか出世の手がかりがなかったからのう。あれこれ手は尽くしたが……その手の勝負では柳生但馬に軍配が上がってしもうたわ」
「なるほど、それで
「おお、これだけでわかったか。なかなか察しがいい」
今度はにやりと笑う。猫の目のように表情がくるくる変わる男だ。
「皇紀が二千と五百年、
いや、虎の目か。
武蔵の顔に浮かんだ獰猛な気配に沖田はそう思い直す。
「倒幕どころじゃなく、朝廷までも倒そうってわけか。それじゃまるで平将門だ」
「将門などと一緒にするな。
「へえ、じゃああんたは天の器だって言うのかい?」
「そこまで自惚れてはおらぬ。儂は
また柳生か。将軍家指南役の座を奪われたことによほどの恨みがあるらしい。
「しかし、儂らの仲間には本物の天下人がおる。魔王と恐れられた不世出の英雄がの」
「織田信長、か」
「然り。しかし、かの御仁が信長公であるとよく気がついたのう」
「あんたと違って芝居に出てくるそのままだったからね」
「知名度の差か。悲しいのう」
武蔵は顔をしかめて頭を振る。
いかにも演技がかった仕草だが、沖田にはこれが本心に思えた。
「あんたらの狙いはわかった。幕府も、朝廷さえも倒して成り代わろうってわけだ。で、あんた自身はどうなんだ?」
「儂自身?」
沖田の問いに、武蔵はきょとんとした顔をする。
「決まっておろう、織田将軍家の剣術指南役となるのよ。世の武芸者たちは儂を仰ぎ見、ある者は歯噛みし、ある者は媚びへつらう。町を往けば民百姓が『あれが二天の殿様よ』『天下無双の剣』『この世で一番強い男だ』と口々に噂する。美酒に美女、山海の珍味佳肴も思いのまま。これに昂らぬ
喜色満面の笑みを浮かべて、武蔵は酒を呷る。
沖田も杯を空け、残った水気を振って懐紙で拭う。
すっく立ち上がって盃を武蔵に返した。
「悪いけど、俺にはあんまり興味がないな。ただの剣術馬鹿なもんで」
「なんじゃ、話は終わりか」
瓢箪に栓をした武蔵もすっくと立ち上がる。
身長は沖田よりも三、四寸(10センチ前後)高いだけだが、巨人のような圧力がある。身体が厚く、肩幅が広いせいもあるだろう。厳しい顔つきや背に負った長柄の武器の数々もあるだろう。
しかし、それだけではない。
この奇妙な酒宴を見物していた野次馬たちの表情が、突風に打たれたように一斉に強張っていた。剣気、殺気、気魄――濃密に圧縮されていたそれが、立ち上がった瞬間に開放され、吹き荒れたのだ。それこそが武蔵を実際以上の巨人に見せた原因の正体である。
だが、その暴風を間近で受けているはずの沖田の表情は涼やかであった。まるで温かな春風の野を散歩しているかの如く、折り重なって倒れている浪人者たちのところへ行くと、彼らの得物であろう竹刀を一本手に取った。
「まずはお手並み拝見といこうかな。天下に名高い宮本武蔵先生だ。一手ご指南願います」