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第73話 酒宴

「お待たせしやした」

「うん、ありがとう」


 沖田は弥次郎から瓢箪を受け取ると、ちゃぷちゃぷと鳴らしてから、

「ほら、なみなみいっぱいだ」と武蔵に放って寄越した。


「ふはは、かたじけない」

 武蔵は瓢箪を空中で掴み、それを煽ろうとして、はたと手を止める。

 沖田が細い目でこちらを見つめているのに気がついたのだ。


「こういうのって差しつ差されつするもんじゃないの?」

「おおっと、これは失礼致した。喉の渇きに焦ってしもうたようだ」


 武蔵は懐から何かを取り出すと沖田に放った。

 それは赤漆で塗られた盃だった。欠けはもちろん曇りもなく、かすかに金箔が散らされている。華やかでありながら侘びた風情に、この手のものには疎い沖田にも一目で名品であることがわかった。


「良い出来だろう。儂が作ったのだ。ほれ、酒を注ぐと金箔の輝きが浮かんで星空のようになる……が、こう明るい昼間ではよくわからんな」


 沖田は武蔵の正面にでんと腰を下ろし、盃に酒を受けながら、


「へえ、見た目によらず器用なんだな。俺と同じ剣術馬鹿だと思ってたのに」

「馬鹿者。それでは出世が叶わん。書画に茶の湯に和歌に能、陶芸、作刀、なんでもできんと一流の武芸者とは言えん。ただの剣術馬鹿じゃ」


 令和の現代でこそ文化人としての一面を知られる武蔵であるが、沖田の時代にはあまり知られていなかった。晩年を過ごした肥後でこそ詳しい事績が語り継がれていたが、遠く江戸では講談で活躍する剣豪という印象しかないのだ。


 武蔵は盃をもう一つ取り出すと、手酌で一杯飲み干した。唇を舐めて舌鼓を打つ。


「うむ、良い酒だ。実はさっきまで飲んでいたのはずいぶんと薄まっていたようでな。どうも酒屋にたばかられたようだ」

「そりゃそんな山法師みたいな格好してればね」

「ははは! それはそうじゃのう!」


 武蔵は毛皮の襟を掴み、ばさばさと揺らして笑う。

 白い埃が辺りに舞った。


「して、聞きたいことがあるそうじゃのう。まずは二天一流ではなく、二天廻厭かいえん流なのはなぜか、であったか。ふうむ、まずは廻厭の意味はわかるかの?」

めぐるをいとう、だったっけ?」


 二条城に屍人ゾンビの大群を率いて押し寄せた吉田松陰が確かそんなことを言っていた。徳川二百五十年の太平により、日本は同じことを繰り返すだけの国になっている。その繰り返しを終わりにさせてやろう、そんな趣旨のことを叫んでいたはずだ。


「然り。それがわかっておれば話は早いの。では二天とは何かわかるか?」

「二刀流のことじゃないの?」


 沖田の答えに、武蔵はくくくと含み笑いをし、腰の刀をぱたぱたと叩いた。


「こんなものが『天』などという大層なものかよ。日本における二つの天。それは天皇家と将軍家じゃ。二天を仰ぐ一つの流派、それが二天一流と名付けた理由じゃの」

「はあ、案外殊勝じゃないか」

「ただの方便、おべっかに過ぎんわ」


 武蔵はがははと豪快に笑い、それから苦い顔になる。


「あの時代では朝廷か徳川か、いずれかに媚びを売るしか出世の手がかりがなかったからのう。あれこれ手は尽くしたが……その手の勝負では柳生但馬に軍配が上がってしもうたわ」

「なるほど、それで廻厭かいえんね」

「おお、これだけでわかったか。なかなか察しがいい」


 今度はにやりと笑う。猫の目のように表情がくるくる変わる男だ。


「皇紀が二千と五百年、徳川とくせんの世が二百と五十年。そろそろ天下の血のめぐりも悪くなってきた頃でござろう」


 いや、虎の目か。

 武蔵の顔に浮かんだ獰猛な気配に沖田はそう思い直す。


「倒幕どころじゃなく、朝廷までも倒そうってわけか。それじゃまるで平将門だ」

「将門などと一緒にするな。彼奴きゃつは所詮ふた月で斃れた逆賊よ。新しき天の器ではなかった」

「へえ、じゃああんたは天の器だって言うのかい?」

「そこまで自惚れてはおらぬ。儂はまつりごとが不得手じゃ。柳生但馬にまんまと出し抜かれたようにの」


 また柳生か。将軍家指南役の座を奪われたことによほどの恨みがあるらしい。


「しかし、儂らの仲間には本物の天下人がおる。魔王と恐れられた不世出の英雄がの」

「織田信長、か」

「然り。しかし、かの御仁が信長公であるとよく気がついたのう」

「あんたと違って芝居に出てくるそのままだったからね」

「知名度の差か。悲しいのう」


 武蔵は顔をしかめて頭を振る。

 いかにも演技がかった仕草だが、沖田にはこれが本心に思えた。


「あんたらの狙いはわかった。幕府も、朝廷さえも倒して成り代わろうってわけだ。で、あんた自身はどうなんだ?」

「儂自身?」


 沖田の問いに、武蔵はきょとんとした顔をする。


「決まっておろう、織田将軍家の剣術指南役となるのよ。世の武芸者たちは儂を仰ぎ見、ある者は歯噛みし、ある者は媚びへつらう。町を往けば民百姓が『あれが二天の殿様よ』『天下無双の剣』『この世で一番強い男だ』と口々に噂する。美酒に美女、山海の珍味佳肴も思いのまま。これに昂らぬおのこがいるか? んん?」


 喜色満面の笑みを浮かべて、武蔵は酒を呷る。

 沖田も杯を空け、残った水気を振って懐紙で拭う。

 すっく立ち上がって盃を武蔵に返した。


「悪いけど、俺にはあんまり興味がないな。ただの剣術馬鹿なもんで」

「なんじゃ、話は終わりか」


 瓢箪に栓をした武蔵もすっくと立ち上がる。

 身長は沖田よりも三、四寸(10センチ前後)高いだけだが、巨人のような圧力がある。身体が厚く、肩幅が広いせいもあるだろう。厳しい顔つきや背に負った長柄の武器の数々もあるだろう。


 しかし、それだけではない。


 この奇妙な酒宴を見物していた野次馬たちの表情が、突風に打たれたように一斉に強張っていた。剣気、殺気、気魄――濃密に圧縮されていたそれが、立ち上がった瞬間に開放され、吹き荒れたのだ。それこそが武蔵を実際以上の巨人に見せた原因の正体である。


 だが、その暴風を間近で受けているはずの沖田の表情は涼やかであった。まるで温かな春風の野を散歩しているかの如く、折り重なって倒れている浪人者たちのところへ行くと、彼らの得物であろう竹刀を一本手に取った。


「まずはお手並み拝見といこうかな。天下に名高い宮本武蔵先生だ。一手ご指南願います」

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