「……いやはや、すっかり不意を突かれました」
「へえ、頭だけでもしゃべれんのか」
土方は生首となったヒュースケンに歩み寄り、和泉守兼定を無造作に眉間に突き立て、獰猛な笑みを浮かべた。
「不死身ってのは便利だな。寸刻みにしてどこまで保つか試してみるか」
「……刻まれるのは食材の役割です。……ご勘弁願いたいですね」
「口の減らねえ野郎だ」
「……身体はだいぶ目減りしましたよ」
ヒュースケンの口がにやりと歪む。そして次の瞬間、ぼろぼろと分解して崩れ落ちた。破片は環形動物の群れとなり、水中に散って泳いでいく。
「なっ!? 虫になりやがった!?」
「ああもう、これだから魔物っていうのは厄介だなあ」
驚く土方を尻目に、沖田は痛む身体を押して剣を振るう。
張り巡らされた血管が何本も断ち切られ、中空に浮かんだ巨大な心臓が落下し、盛大に水しぶきを上げた。
「とりあえず、これでブリュインの方は確保かな?」
加州清光が一閃し、心臓が真っ二つに割けた。
大量の粘液が溢れ、ブリュインの身体がごろりと転がる。意識はなく、かなり衰弱しているようだが息はあった。
「これでもう大きな魔術は使えないはずデス」
意識のないブリュインをアーシアが介抱する。ブリュインは生きたまま呪物に仕立て上げられ魔術のエネルギー源となっていた。それが失われた以上、もう派手な真似はできないはずだ。
「さて、予定とはだいぶ違ったが……」
水の染み出る石壁を調べながら土方が言う。
この関内は埋立地だ。掘ればすぐに海面より低くなる。石壁の向こうは海の中だろう。イソメの群れに変じたヒュースケンは、石壁の隙間を通って海中に逃げたと思われた。
「結局は計画通り、ですね」と沖田が引き継ぎ、
「わたくしたちも早く地上に戻りマショウ!」アーシアが元気よく叫んだ。
魔術が解けたことで維持ができなくなったのだろう。背後を塞いでいた岩でできた巨大な腕はすでにその形を失い、瓦礫の山に変わっていた。沖田たちはそれを乗り越えて地上へと戻る。
海は領事館のすぐ裏側だった。
濃密な霧が立ち込めた夜景は薄幕を張ったように曖昧だ。
その向こうから一隻の船影が浮かび上がってくる。
城壁の如く巨大な塊にそそり立つ三本のマスト。それがゆっくりと大きくなり、やがてフジツボで覆われた船腹がはっきり見えてきた。
『ハーハッハー! 首尾は上々みてえだな、兄弟!』
「誰が兄弟だ」
『おっ、そっちも男前が上がったじゃねえか、少年!』
「俺は立派な大人だよ」
幽霊船とともに姿を表したのは蛸の触手のような髭を蓄え、鉤爪の左腕を持つ男、蛸髭だ。
追い詰められたヒュースケンが逃走を図ることは予想の内だった。関外へ逃げるルートは新選組隊士で封じ、海は蛸髭が押さえる。もちろん、沖田たちが直接捕らえられればそれに越したことはなかったのだが。
「で、海は任せろって話だったが、そっちの首尾はどうなんだ? イソメになって逃げちまったが」
『心配すんな。イソメつったか? そいつぁいい釣り餌だ』
ざぶり。黒い海が盛り上がる。
一本の巨大な柱が海中からそそり立った。
『そういや帆も蒸気もねえのに、このフライングダッチマン号がどうやって走るか説明してたっけな?』
ざぶり、ざぶり、ざぶり。
二本、三本、四本と黒い柱が次々にそそり立つ。その数はしめて八本となった。盛大な水しぶきを上げて現れたのは、丸い頭と吸盤付きの触手を持つ巨大な蛸だった。
『クラーケン、こいつがフライングダッチマン号のエンジンってわけよ』
触手の一本がうねり、天高く掲げられる。
その先端には裸の人間が一人絡め取られていた。
水死体じみた青白い肌、痩せこけた顔、その顔には当然見覚えがある。
「ヒュースケン? なんで元に戻ってんの?」と沖田が思わず疑問を口にする。
『ハーハッハー! 海は俺様の領域よ! チンケな魔術なんぞ使わせてたまるかよ!』
どうやら蛸髭がヒュースケンの魔術を破ったようだ。どういう理屈か沖田にわかるはずもないが、その程度の力はなければ幽霊船の船長など務まらないのだろう。
触手が蠢き、ヒュースケンを蛸髭の目の前まで運ぶ。
『さて、脱走者にはキツイお仕置きをくれてやらねえとなあ』
「おーい、こっちにもまだ聞きたいことがあるんだから、順番は守ってよ」
『おっと、悪りぃな。つい先走っちまった。お楽しみは
蛸髭はヒュースケンに向けて不器用に片目をつむる。
「……参りましたね。……私にもまだ陸でやることがあるのですが」
『残念だがそれは来世まで取っておきな。てめえが贖罪を済ますまで、今度こそ逃がしゃしねえぞ』
「……すみませんが、約束がありましてね。……鷹揚な方ですが、約束破りには厳しいのですよ」
『てめえの事情なんて知ったことかよ』
蛸髭がヒュースケンの顔面に唾を吐きかけようとしたときだった。
――
轟音が大気を揺らした。
少し遅れて水柱が立ち、フライングダッチマン号の甲板をしとどに濡らす。
『なんだァ!?』
霧の向こうからジャカジャカと弦楽の音色が近づいてくる。
轟音が連続し、水柱が次々に立ち上がる。
白い霧が引き裂かれ、黒鉄で覆われた巨船が姿を現した。
「すまんがそいつは返してもらうがじゃ。わしが先約でのう!」
その舳先に立っていたのは、バンジョーを抱えた総髪の男。
魔人坂本龍馬であった。