子の刻、
関外の大通りをおぼつかない足取りで歩く女がいた。
分厚い雪駄がころんころ、こっころんと不規則な足音を響かせている。
どこぞの座敷に呼ばれた遊女の帰り道だろうか。
艶やかな紅の着物は霧に透ける月明かりしかない闇の中でもくっきり目立った。
背には風呂敷に包まれた三味線らしきものを背負っている。
夜目のきくものならば遊女の美しさに目を惹かれたかもしれない。
細く繊細なおとがいに切れ長の瞳。
肩が少々いかりっぽいが、そこから伸びるうなじは白くなんとも妖艶であった。
通りに他の人の姿はない。
江戸市中ならばこの時間でも煌々と明かりを灯す飲み屋や悪所があるものだが、幕府が率先して縄張りをした、いわば人工都市である横浜にはそんな不埒な店はないようだ。
ほうほうと、松林から梟の鳴き声が聞こえる。
――びちゃびちゃ、びちゃびちゃ
湿った音がした。
音の元は女ではない。
女の背後から、行く手から、横手の路地から湿った音が聞こえてくる。
――びちゃびちゃ、びちゃびちゃびちゃ
ずぶずぶに濡れた手ぬぐいを落としたような音が連続する。
それが女の周囲からじわりじわりと近づいてくる。
女は足を止める。
「もし、どなたでございましょう? 何か御用でありんすか?」
少々上ずった中性的な声で、女が闇に問いかける。
闇からの返事はない。
代わりに湿った音が近づき、包囲を狭めてくる。
ひゅん、という風切音。
女の四方から、何か細長いものが蛇のようにくねりながら殺到する。
女はくるりと身を翻す。
紅の着物がバサリと広がり、女の体を覆い隠した。
そして銀色の線が旋風の如く螺旋を描いた。
闇を舞う蛇は首を刈り取られ、硬質な金属音を立てて地面に転がった。
蛇の正体は鉤縄だったのだ。
「はあ……初日で来てくれて助かったよ。こんなの何日も続けてたら精神的に参っちゃうところだった」
赤い着物がふぁさりと落ちると、銀光きらめく加州清光を抜いた沖田が姿を現した。
地に落ちた縄の一本を雪駄で踏みつけると、縄の伸びる先に向かって脱いだかつらを投げつける。
「ぴしゃぁあぁっ」
水しぶきに似た悲鳴。
沖田は雪駄を脱いで矢のように駆け、声のもとに向かって逆袈裟に切り上げる。
紫色の粘液が散って夜闇を汚した。
「新選組一番隊組長、沖田総司である! 神妙に致せ!」
ばっばっばっ、一斉に明かりが灯った。
周辺の商家が鎧戸を開けたのだ。
「同じく副長、土方歳三だッ!」
続けて、闇の中にダンダラ羽織の一団が浮かび上がった。
十余名の隊士を引き連れた土方だ。
浅葱色の集団が、沖田を囲んだ者たちのさらに外側に囲みを作る。
「うわ、なんだこれ。気持ち悪いなあ」
四方から照らされ、沖田を襲った者たちの姿が明らかになる。
それはてらてらとぬめりを帯びた肌をしていた。
「人間に
商家の二階から怪物の正体を見抜いたアーシアが叫ぶ。
二条城で量産された屍人は人間のみを素体としていた。それよりも強力だということだろう。
「わあむ? わかんねえが、釣り餌のアレみてぇだな、アレ」
「イソメですか?」
「そうそう、イソメ怪人だな、こいつぁ」
「噛むから好きじゃないんですよね、イソメ」
しかし、沖田も土方もものともしない。
軽口を叩きながら、怪人を次々に斬り伏せていく。
「うわっ、気色悪っ!」
斬り飛ばした手足がびちびちとうねり、沖田に向かって飛びかかった。
沖田は顔をしかめて飛び退いて交わす。
紫の粘液が宙に飛び散り、
「ばらばらにすると臭いし、そうしないとまだ動く……厄介だなあ、これ」
「つまらねえ文句言ってんじゃねえ。いいから手筈通りにするぞ」
「はいはい、わかりましたよ」
奮戦するのは沖田や土方ばかりではない。
平隊士たちも連携して怪人を斬り伏せていく。
集団戦は新選組の十八番だ。
一人が牽制し、一人が足を切りつけ、止めとばかりに他の一人が倒れた怪人に刀を突き立てる。そんな連携により怪人はみるみる数を減らしていく。
「しゅぁぁあぁあっ」
「うわぁっ!?」
隊士のひとりが悲鳴を上げた。
顔面にベッタリと紫の粘液が張り付いている。
追い詰められた怪人が口から粘液を吐き出したのだ。
その隙をつき、薄くなった囲みから一体の怪人が脱出し、闇の彼方に駆けていく。
「待てっ!」
「じゅぁあっ」
その背に向けて、沖田が咄嗟に小柄を放った。
小柄は怪人の背に突き刺さるが、構うことなく逃げ去っていく。
「ちっ、一体取り逃がしたか……なんてな」
最後の一体を斬り倒した土方が、和泉兼定を懐紙で拭いながら言う。
沖田も加州清光を丁寧に拭いながら応じる。
「人の肉の味をおぼえた以上やめられるはずはない、って蛸髭さんの話だったけど、ばっちり罠にかかってくれましたね」
「おう、こいつらがヒュー助とやらの仲間なら話は早ええな」
「ヒュー助じゃなくて、ヒュースケンですよ」
「だったか? まあいい。追うぞ」
「待ってクダサイ! わたくしも行きます!」
二階から慌てて降りてくるアーシアを待って、一行は闇に点々と続く紫の血痕を追った。