ここまで話して、蛸髭は深い溜め息をついた。
『沈める前に船を調べて、ぞっとしたよ。普通の食料がほとんど手つかずで、減ってたのは干し野菜や果物ばかりだ。干し肉や魚は丸のまんま残ってやがった。飢えて人肉に手を出すやつはいる。だがそれは仕方がなくだ。あの野郎は最初から普通の食料には興味がなかったのさ』
「その……手足を切り落とされた方たちはどうなったのデスカ……?」
『船と一緒に沈めたよ。完全に狂っちまってた。おまけに手足もねえ。あのまま生きていても……いや、生きることもできねえだろ。罪人にならなかっただけマシだと思ってくれや。尼の嬢ちゃんよ』
「…………」
あまりにも壮絶な話に、アーシアもそれ以上言葉を紡げなかった。
蛸髭の対応はむしろ慈悲深かったかもしれないとすら思ってしまう。
「それで、そいつはどうやって脱走したの? というか、そいつが日本に来てるから蛸髭さんたちも日本に来たってことだよね?」
しかし沖田は動じずに話の続きを求める。
気味の悪い話ではあるが、沖田が追っている事件とはまだかかわりが見えない。
兵器の密輸、そして坂本龍馬とのつながりを求めてはるばる横浜までやって来たのだ。
沖田の問いに蛸髭は一瞬顔をしかめると、咳払いをして口を開いた。
『あれは忘れもしねえ、十年前の夏のことだ――』
「あ、手短にお願いします。こっちも忙しいんで」
『はあ!?』
また長々と怪談を聞かされてもたまらない。
あくまでも淡々としている沖田に、蛸髭は三角帽を脱いで脂ぎった頭をかきながら、『ったく、どうなってやがんだ最近の
『いつものように縄張りを流してたときだ。海の真ん中で真っ黒な鉄で覆われた船にいきなり出くわしたんだよ。見たこともねえバカでけえ船だった』
この幽霊船も沖田たちの常識からすると相当大きいのだが、それよりも遥かに巨大ということだろうか。一体どれほどの巨船なのか、沖田には想像が及ばなかった。
『その真っ黒な船の舳先によ、バンジョーを抱えたアジア人が立ってやがった。「わしは坂本龍馬じゃ! 古い友達を迎えに来たがじゃー!」ってな。その瞬間よ、野郎は肉の残ってる連中――贖罪を終えてないド悪党どもをまとめて反乱を起こしやがったんだ』
「坂本龍馬!」
沖田の眉が釣り上がる。
『なんだ、知り合いか?』
「知り合いも何も……俺たちが追ってるやつですよ。隣に背の高い眼鏡をかけた男もいませんでしたか?」
『いたよ。そいつが斬り込んできてガタガタにされたんだ。俺も左腕を斬り飛ばされて海になくしてな。それきりこれってわけさ』
蛸髭が左腕を掲げてみせると、沖田の目が険しく光った。
沖田の脳裏に浮かんでいたのは岡田以蔵の姿だ。堀川通での邂逅以来、一日たりとて忘れたことのない宿敵である。
『ふん、因縁の相手――宿命のライバルってわけか。俺様にもいたぜ。黒髭エドワード・ティーチっつって……』
「あ、そういうのいいんで」
『おいっ!』
話したがる蛸髭を無視し、沖田はしばし思考に耽る。
坂本龍馬と脱走者、そして日本がつながった。一連の兵器密輸に噛んでいるのは間違いないだろう。
黙ってしまった沖田の代わりに土方が口を開く。
「つまりアレか? その脱走者がロバート・ブリュインの正体ってわけか?」
『ロバート・ブリュイン? 誰だそりゃ?』
「偽名かもしれねえがな。メリケンの領事だよ。人が変わったようだって話だが、大方その男に成り変わられてるんだろうよ」
『いや、それはねえ。この船の囚人になった時点で
「枷?」
土方が首を傾げ、アーシアの方を見る。
魔術の話は土方にもわからない。餅は餅屋というわけだ。
アーシアはこほんと咳払いをすると、眼鏡を持ち上げるような仕草をしてから説明する。
「『禁忌』に属する魔術の一種デスネ。何かしらの行動を禁ずるものデス。名を縛る魔術はその中でもポピュラーなものデス。名はそのものの本質ですから、本名に対して改名を禁じる『禁忌』をかけられたならばそうそう破れないデショウ」
「なるほど、お尋ね者にかけられば捕物が楽になりそうだな」
浪士の間で偽名、変名は頻繁に行われ、それが探索の手間を増やしている。
新選組隊士の中にも入隊に当たって名を変えた者は多いのであまりとやかく言える立場ではないのだが。
「で、そいつの名前はなんつうんだ?」
『ヘンリー・ヒュースケンだ。オランダ人っつってたが本当はどうだろうな』
「ヘンリー・ヒュースケン?」
聞き覚えのある名前に、沖田が思考の海から戻って来る。
「たしか、前の領事のハリスの通詞がそんな名前じゃなかったっけ?」
勝海舟との会談で少しだけ出てきた名前だ。
あまり自信がないので確認すると、アーシアも「ハイ!」と元気よく頷いた。
「だけど、そいつは一昨年に浪士に斬られて死んでるって話だったよね」
『あン? 囚人は
「あー、やっぱりそういうオチだよねえ」
沖田があっさりと受け入れるのに、蛸髭は目を丸くする。
『なんだ、これでも驚かねえのかよ』
「不死身とかちょっと慣れっこになっててね」
『俺様が言うのもなんだが……どんな人生してるんだ?』
蛸髭の言葉に沖田は苦笑いで返す。
沖田にしても、ほんの半年前まではそんなのはお伽噺にしかないと思っていたのだ。
「っつーことは、本当の黒幕はあの気味の悪い通詞ってことか?」
三人の脳裏に浮かんでいたのは、ブリュインの通訳を務めていた水死体のような男だ。
「そういえば、あいつからは魔の気配――瘴気は感じなかったの?」
「はい、何も感じなかったデス……」
「ごめん、責めてるわけじゃなくって……」
申し訳なさそうに俯くアーシアに、沖田が慌てる。
そこに蛸髭が口を挟んだ。
『野郎は擬態が上手かったからな。どう考えても魔術師のたぐいだと思うがこの船に乘ってる間もとうとう尻尾を出さなかった。嬢ちゃんもどうやら
「なるほどね、なかなか厄介そうな相手だなあ」
「まずは領事館から引きずり出さねえと話にならねえな」
沖田と土方は揃って腕組みして考え込む。
沖田はそもそもこの手の搦め手が苦手であるし、土方は謀略も巡らすが領事館相手ではさすがに策が思いつかない。不逞浪士の摘発とは勝手が違いすぎるのだ。
『野郎をとっ捕まえるって話なら、俺様にも一枚噛ませてくれや。アイデアならあるぜ』
蛸髭が白い歯を剥いてにやりと笑った。