あれは忘れもしねえ、1795年の夏のことだ。
ひでえ嵐が明けて、俺たちもひさびさに帆を開いたところだった。
このボロ船の帆を開いて意味があるのかって?
バカヤロウ、あんときはもっとぴんしゃんしてたんだよ。
俺たちが航海していたのは喜望峰の辺りだ。
知ってっか? おう、知らねえか。
何でも知ってちゃ可愛げがねえからな。そんなもんでちょうどいいぜ。
喜望峰ってのはアフリカのいっっっちばん南の端っこだ。
まあ本当はアガラス岬ってとこが南端なんだがな。細けえことはいいんだ。
アフリカの西側は嵐が多くて風も潮も読みづれえ。
だから遭難する船が多くてな。
で、そこを過ぎると途端に海が素直になる。
それで「ここまでくれば一安心だ」なんつって喜望峰って名付けられたらしいな。
ああ、そんな話はどうでもいいんだ。
嵐に揉まれたんだろうな。
一隻の船が喜望峰が見えるか見えねえかってところで漂ってやがった。
だが、様子がおかしい。
マストも無事だし、船体にも目立った破損はねえ。
さっきも言った通り、天候は絶好だ。
そんなときならよ、喜び勇んでマストを広げるのが普通なんだ。
船乗りにとって天候は生き死にの問題だ。
こりゃ仕事だな、と思って船を寄せた。
船が無事でもよ、船員が全滅しちまうなんてことは珍しくねえんだ。
疫病、水や食料の枯渇、仲間割れの挙げ句の共倒れ、俺様も知らねえ化けもんに魅入られて全員が海に飛び込んじまったなんてこともあるわな。
何? 俺様にも知らねえ化けもんがいるのかって?
そりゃいるよ。海だからな。神様だろうが魔物だろうが、海の全部を知るなんて土台無理なんだよ。
漂流船に近づくと、なんだか妙な匂いが漂ってきやがった。
いや、嫌な匂いじゃねえんだよ。
思わず生唾を飲んじまうような旨そうな匂いなんだ。
十分に近づいたら、鉤縄をかけて舷を寄せる。
波は穏やかで、まるで苦労はなかった。
鈎がガツガツと食い込んでも、ガツンと梯子をかけても誰も出てこねえ。
不気味なくらい静かなもんよ。人の気配がまるでねえ。
かといって、荒れてるわけでもねえんだ。
乗り込んで調べてみても、弾痕もねえ、血痕もねえ、もちろん死体も転がってねえ。
緊急脱出用のボートもそのままだ。
きれいなもんさ。それこそ出港したばっかりみてえにな。
嵐に揉まれたってのが信じられねえくらいだ。
――あ…………あ……が……う……あ…………あ…………
人の声が聞こえてきた。
耳を澄ますと、足元からだ。
途切れ途切れの声を追って、船倉に続くドアを開いて階段を下った。
湿った生暖かい空気がむわりと広がる。
――あり……あ……が……う……あり…………あ……う……
声が大きくなる。
匂いも濃くなる。
シチューの匂いだ。
肉をたっぷり入れて煮込んだ、海じゃなかなか嗅げない匂い。
普通なら腹の虫のひとつも鳴るところだろう。
だが、逆にみぞおちから上がってくる胃液が上がってくる。
吐き気をこらえながら匂いを辿って狭い通路を進む。
――ありが……う……あ……が……とう……ありが……あ……とう……
ここまで来りゃあ何を言ってるのかわかる。
ありがとう、ありがとう、ありがとう、ありがとう。
それをひたすら繰り返してやがるんだ。
ドアの前に立った。
窓なんてねえよ、客船じゃねえんだからな。
――ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう……
ドアの向こうから聞こえてくるのは一人の声じゃなかった。
何人も、何十人もの声がざわついてやがるんだ。
意を決してドアを開くと、白い湯気が溢れてきた。
そこは厨房兼食堂だった。
広かったよ。
八人がけのダイニングテーブルが四つ。二列に並んでいる。
満席だ。
男たちが椅子に縛り付けられて行儀よく座ってやがる。
いや、縛ってたのは拘束するためじゃねえ。
椅子から転げ落ちねえためにさ。
そいつらはな、手足をみんな切り落とされてやがったんだ。
きれいに付け根からな。
どうやったのか、傷口はつるりときれいでな。
まるで最初から手足なんてなかったみてえによ。
――ありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとうありがとう……
そいつらがよ、ぎょろぎょろと目を動かしながら呟いてやがったんだよ。
まるで神に捧げる祈りのように……悪魔を讃える歌のように……
そいつらの前にはシチューの皿があった。
でっかい肉がごろごろ入ったとびきり旨そうなホワイトシチューさ。
ご丁寧にひとりひとり木匙が添えてあるが、どうやって使えってんだ。
ひとりだけ、テーブルの間を縫って自由に歩いてる野郎がいた。
代わりに木匙を使って、ひとりひとりに食べさせてやがるんだ。
ありがとう……
食ったやつは笑うんだよ。
お袋の乳を含んだ赤んぼみてえによ。
にっこりと、旨そうに、これ以上の幸せはないってほどに。
奥のかまどじゃ大鍋で何かが煮られていた。
沸き立つ湯気の隙間からちらちら見えるんだよ。
上に向かって伸びる、何本もの手がよ。
病気の木みてえに、指を捻じくれさせて、何本も、何本も。
「……おや、お客様とは。……ご相伴いかがですか?」
ぞっとしたね。
あの野郎がいつの間にか目の前に立ってて、皿を差し出しやがるんだ。
とっさに皿を叩き落として、無我夢中でふん縛った。
ろくに抵抗もしなかったよ。
それどころか微笑んですらいたように見えた。
こうして野郎はうちの囚人になったわけさ。