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第47話 目的

『へっ……やるじゃねえか、俺様の負けだよ』


 蛸髭がごろりと寝返りを打ち、大の字になって洩らした。

 土方もうつ伏せになった身体を仰向けにし、それに応える。


「あン? どういうこった。誰がどう見たって引き分けだろうが」

『判定は俺様の負けって最初に決めただろうが』

「ざけんなよ。ンなことを言うなら俺の方こそ負けだ。手加減された上にこれじゃあ世話がねえんだよ」

『いつ誰が手加減したっつうんだ? 俺様は全力を出し切ったぞ』

「左手だよ、左手」


 土方は寝転がったまま左拳を持ち上げる。


「取っ替えりゃあよかったろうが。てめえだって何度も拳を砕かれるほど間抜けじゃねえだろう」


 蛸髭は試合前に鉤爪の義手を骸骨と交換していた。

 インターバルの間に砕けた左拳を取り替えればよかったと言っているのだ。

 しかし、それを聞いた蛸髭は上半身を起こし、唾を飛ばして怒鳴る。


『試合中にそんなみっともねえ真似ができるか! だいたいアレだ、手加減したのはてめえだろ! 1ラウンドの最後の右フック、打ち抜いてたら俺ァ確実にノックアウトされてたぜ』

「ンだとぉ?」


 土方も上半身を起こし、青筋を立てて怒鳴る。


「ゴングが鳴ってただろうが!」

『ゴングと同時のパンチは問題ねえんだよ!』

「知るか!」

『かぁーっ! これだからおかもんは常識がねえ!』

「やんのかコラ!」

『上等だオラ!』

「やめてクダサイ!」


 這ったまま掴み合いを始めそうな二人の間に、白い影――アーシアが割って入る。


「お二人とも、試合が終わればノーサイド! それがスポーツマン精神と言うものデスヨ! あの熱い戦いを汚してしまうおつもりデスカ!」

『ぐ……』「お、おう……」


 アーシアの叱責に、二人はしゅんと大人しくなる。いい歳をした大人の男がずっと年下の少女に叱られるのはなかなか堪えるものがあったらしい。


 大人しくなった二人にアーシアは満足気に頷いて、肩掛け鞄から包帯や軟膏を取り出し、テキパキと手当てを施していく。二人の顔が包帯と湿布まみれになるにつれ、戦いの空気も覆い隠されるように消え失せていった。


(こういうところだけはちゃんと尼さんっぽいんだよなあ)


 遅れて沖田もリングに上がり、土方と蛸髭の間に腰を下ろす。


「ええっと、それで今更なんだけど……蛸髭さん、この船は何なんです? それにどうして横浜に来たんですか?」

『ああン? このフライング・ダッチマン号を知らねえのか! ……っつーかよう、そもそもてめえらこそ何者なんだ? いきなりカチコミしてきやがって』

「あー……」


 そこを突かれると正直痛いところではある。

 幽霊船という時点で坂本龍馬の手先であろうと決めつけて斬り込んだのだ。それがどういうわけか一応は話が通じる相手だった上に、魔の気配を感じ取れるアーシアも警戒していない。


「ちょっと言いにくいんだけど……」


 しかし誤魔化したところで始まらない。沖田はこれまでの経緯をかいつまんで説明した。


 * * *


『するってぇと、俺様の船が武器の密輸をしてたと勘違いしてたってことか?』

「ええ、まあ。なんか申し訳ないんですけど」

『なんかじゃねえ。普通に申し訳がりやがれ』

「でも、幕府の許可は得てないですよね?」

『うっ……』


 沖田の言葉に、蛸髭は一瞬言葉をつまらせる。


『う、海の男におかの法律なんか関係ねえんだよ! こっちは幕府とやらができるずうっと昔から航海してるんだ!』

「そのわりに洋式の幽霊船の噂なんて聞いたこともないけどなあ」

『うっ……。そ、そりゃ俺たちの縄張りは大西洋の東側だからな……』

「大西洋ってメリケンと欧州の間の海だっけ? ずいぶん遠くから来たんだね」

『ほう、よく知ってるな』


 蛸髭は意外そうに目を丸くした。

 極東の島国の人間が大西洋を知っているなどと思ってもみなかったのだ。


 余談だが、世界地図は江戸時代の庶民にも広く普及していた。もちろん、現代のように正確なものではなく、物によっては誇張も甚だしい。しかし、大陸の大まかな位置などは間違っていない。それには世界中の民族や文化なども書き込まれており(こちらは間違いの方が多いくらいだが)、想像上の世界旅行を楽しんでいた庶民も多かったのではないかと思われる。


「それにしても、幽霊船にも縄張りなんてあるんだね」

『あるんだよ。補陀落ほだらくだのニライカナイだの、こっちはそういうのの縄張りだ』

「へえー」


 補陀落は仏教における、ニライカナイは琉球の民俗信仰における天国のようなものだ。いずれも遥か南方の海の果てに存在するとされる。こうした海洋信仰は世界中に見られ、蛸髭が言うにはそれぞれの地域を担当する幽霊船があるのだそうだ。


「まあ、そういう話は正直どうでもいいんだけど」

『いいのかよっ!』


 沖田の態度に蛸髭が思わずツッコんでしまう。

 信仰心に篤い方とは言えない沖田には、そもそも興味のない話題だったのだ。許可の話を持ち出したのも、一方的な加害者の立場ではさすがに話しづらかったからにすぎない。蛸髭の反応を見るに、一応後ろめたさはあるようなので話しやすくなった。


「そろそろこっちの質問にも答えてもらえますか? なぜ蛸髭さんは日本に来たんです?」


 武器密輸が誤解であることはわかったが、このタイミングで日本にやってきた幽霊船がまるで無関係とも考えづらい。

 蛸髭は数瞬口をつぐむと、苦々しげに吐き捨てた。


『脱走者を追ってきたんだよ』

「脱走者?」


 意外な言葉に沖田は首を傾げる。


『このフライング・ダッチマン号はな、海で罪を犯した者を乗せた囚人船なんだよ。航海で罪を洗い流し、罪を償って昇天するんだ。お、ちょうどいいやつがいるな。あそこを見ろ』


 蛸髭が船首を指差すと、そこには跪いて両手を組んだ骸骨がいた。

 真夜中だというのに天から光が差し、その骸骨の周辺だけが明るい。光はだんだん強くなり、骸骨は水に溶かした砂糖のようにさらさらと消えていく。それが終わると光は消えて、再び夜のとばりが下りた。


『この船に乗るとき、罪人は生前に近い姿をしている。罪を洗い流すにつれて肉が落ち、骨になり、そして全部の罪を償ったときにああやって消え去るんだよ』

「なるほど、それでこの船は骸骨ばっかりなんだ。……あれ? でもそれだと最近は罪を犯した者はいないってこと?」


 蛸髭がおもむろに頷く。


『そうだ。だがあの野郎は半世紀以上前に乘ったくせに、まるで肉が落ちなかった。罪を悔いるつもりはさらさらねえってこったな。それどころか、腹ん中じゃこの船から逃げ出す算段を立ててたんだろうよ』


 そこで言葉を切って、蛸髭はぺっと唾を吐いた。その顔は隠しきれない怒りに歪んでいる。


『だからあの人喰いの変態野郎は、あのとき真っ先に反乱を起こしやがったんだ!』

「人喰いの変態野郎?」


 そう沖田が問い返すと、蛸髭は忌々しげに脱走した男についての話を始めた。


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