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第46話 船上拳闘②

 重い陶器を床に叩きつけたような音が夜空に響き渡る。

 蛸髭の左拳が土方の額に突き刺さっていた。

 眉間から一筋の血が流れ、顎先まで伝ってぽたりと滴る。


「トシさん!」

「ヒジカタ様!」


 沖田とアーシアの悲痛な叫び。

 リングを囲む骸骨の群れが白骨の両手を叩き、むき出しの歯を鳴らす。


 土方の身体がぐらりと傾き、膝ががくりと折れた。

 ……そして血まみれの口元が、にやりと笑った。


『ぐぁぁぁああああああ!!』


 蛸髭の野太い悲鳴。

 右手で左の手首を掴み、苦痛に顔を歪めてのけぞっている。


「石頭で悪かったなァッ!」

『ごふっ』


 がら空きの腹に、土方の鉄拳が叩き込まれる。

 二度、三度、四度。土嚢を叩くような重い音が連打する。


「い、一体何が起きたのデショウカ!? タコヒゲ選手の渾身の一撃がクリーンヒットしたかと思いきや、一転ヒジカタ選手の逆転攻勢! 解説のソージサン、これはどういうことデショウ!?」

「えぇ……」


 急に解説呼ばわりされて困惑した沖田だが、アーシアの興奮した様子に説明してやらないとおさまらないだろうと諦めて口を開く。


「拳って案外脆いんだよ。ただの喧嘩でも殴った方が指の骨を折っちゃうなんて珍しくもない。で、額の骨は人体の中でも一番硬い。おまけに蛸髭の拳は肉がなく骨がむき出しだ。そんな脆いところと硬いところがぶつかれば――」

「ナルホド! 肉を切らせて骨を断つ、ならぬ骨をぶつけて骨を折ったというわけデスネ!」

「う、うん。まあそういうこと」


 ひとつも上手くない……と思いつつ、とりあえず頷いておく。

 ついでに言えば蛸髭の神速ジャブは肉のない軽量の左腕だからこそなせる技であり、逆にそのために一撃一撃の破壊力に欠けていた……のだが、そこまで話すと余計に解説を求められそうだと言葉を飲み込んだ。


『ぐぉぉぉおおお……』

「おらおらおらっ! どうしたァ! 自慢の足が止まってるぞ!」


 リング上に目を戻すと、土方が蛸髭の腹に連打を叩き込み続けていた。

 蛸髭は脂汗を垂らしながら両腕で頭をかばっている。

 拳同士の戦いは剣のそれとは違う。

 頭部さえ守りきれば、そうそう倒れることはない。


 だが。


 こらえきれず、蛸髭のガードが下がった。

 身体がくの字に折れ、頭が下がっている。


「おらっ! これでトドメだッ!!」


 土方の拳が唸りを上げ、袈裟斬りのごとく振り下ろされる。

 が、その拳は蛸髭のこめかみに触れるか触れないかのところで止まっていた。


『ンだコラ……武士の情けってやつか……』

「ンなもんあるかバカヤロウ。ゴングだ。てめえがルールだとか言ってたやつじゃねえか」


 リングサイドに設けられた砂時計がちょうど空になっていた。

 土方は血混じりの唾を吐き捨て、自分のコーナーへ帰っていく。

 蛸髭もまたよろよろとコーナーに戻り、セコンドの骸骨が差し出した椅子を拒否してロープにもたれかかる。セコンドが左腕を指してカタカタと歯を鳴らしているが、蛸髭はそれにも首を横に振った。


 ゴングが鳴った。


 二人はベタ足のままリングの中央で向かい合い、おもむろに拳を振るう。拳と肉がぶつかる鈍い音が淡々と繰り返され、再びゴングが鳴り響く。

 そして、つい3分前よりもぼろぼろになった姿でコーナーへと帰っていく。


「おおーっと、これはどうしたことデショウ!? 前ラウンドで見せたタコヒゲ選手の華麗なステップがもはや見る影もありマセン! 解説のソージサン?」

「えぇ……。あー、腹をさんざん打たれて息が苦しくなったんだろうね。もう身体は鉛みたいに重いと思うよ」

「ナルホド! タコヒゲ選手はもはや精神力だけで戦っているようなものなのデスネ!」

「う、うん。まあそういうこと」


 ゴングが鳴り響くたび、同じ光景が繰り返される。

 ラウンドが重なるほどに動きが遅くなるが、血まみれの顔に光る瞳だけは異様に輝きを増していた。


 いよいよ最終ラウンド。


「はあ……はあ……思ったよりもやるじゃねえか……。そろそろおねんねしてもいい時間だぜ?」

『はあ……はあ……てめえこそな……。俺様相手にここまで食らいついたのは、この数百年でお前さんだけだぜ……』


 衝突。

 リング中央で血と汗と肉を打つ音が弾ける。


「うぉぉぉおおおおおおおおおお!!」

『がぁぁぁああああああああああ!!』


 二人の動きが精彩を取り戻していた。

 雄叫びを上げながら互いの身体を激しく打ち合う。


『ッぎぃぃぃいいいいいいいいい!!』


 砕けたはずの蛸髭の左拳が土方の顔を跳ね上げる。


「ッらぁぁぁあああああああああ!!」


 土方が踏ん張り、振り下ろしの左フックが蛸髭の顔面を撃ち抜く。

 二人はよろよろと後ずさり、両腕を垂らしたまま互いの目を睨んだ。

 静寂がしばし、リング上を支配する。

 先程までの激しい激突がまるで嘘のようだった。


「あと……一発だ……」


 土方が握りしめた右拳を顔の前に持ち上げる。


『へへ……奇遇じゃねえか……』


 蛸髭の右拳もまた、顔の前に持ち上げられた。

 両者の拳は小刻みに震えている。


「これは……決着の予感デショウカ!?」

「そもそも最終ラウンドだしね」


 盛り上がるアーシアに沖田が小声でツッコむが、興奮したアーシアにはどうやら聞こえていなかったらしい。


 衝突音。


 重い響きがリングを、甲板を震わせ、風圧が霧を吹き払ったようにさえ感じた。

 土方と蛸髭の拳が交差し、互いの顔面に突き刺さっていたのだ。


『やるじゃ……ねえか……』

「てめえも……な……」


 二人は正面からもたれ合うようにして、リングにどしゃりと身を横たえた。

 その瞬間、わぁっと声にならぬ歓声が船上を満たす。


「なんとなんと! まさかの決着ッ! ダブルノックアウトによるドロー試合となりマシタッ! 誰がこの結末を予想したことデショウ! 誰がこの結末を予感できたというのデショウ! この戦い、試合結果こそ引き分けとなりましたが、いずれも本当の勝者と言えるのではないデショウカッ!? いかがですか、解説のソージサン!?」

「えっ? あ、うん。それでいいんじゃないかな」

「とのことデス! 会場の皆様、両選手に惜しみない拍手をお願いシマス!」


――ォォォォォオオオオオ!!!!


 ひときわ高まった歓声と共に、カチャカチャと骨をぶつけ合う乾いた拍手が爆発した。


「何なんだろ、これ……」


 そんな沖田のぼやき節は、圧倒的な拍手に押し流されて誰の耳にも届かなかったという。


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