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第45話 船上拳闘①

 甲板には奇妙な舞台のようなものがあった。

 全体は三間(約5メートル)四方の正方形。床は沖田の腹ほどの高さで、一面に布が張られている。四隅には杭が立っており、杭と杭の間には四本の綱が平行に張り巡らされている。


「なんだこりゃぁ?」

『はっ! いまさらビビったのか! 早く上がってこいや!』

「誰がビビるかコラァッ!」


 舞台に立つ蛸髭に挑発され、土方は一番上の綱を掴んで飛び上がる。

 真四角の空間の中で二人の視線がぶつかりあい火花を散らした。


「珍妙なもんをこさえやがって。何なんだよこれはよぉ!」

『ふん、極東の猿はボクシングも知らねえのか』

「ボクシングだァ?」

『はあ、やだねえ。これだから陸の田舎もんはよぉ。船乗りの神聖な決闘も知らねえとはよ』

「ンだとこらぁ! こちとら畏れ多くも将軍様の御領、武州多摩は石田村の生まれ育ちよ! そんじょそこらの百姓たぁわけが違げぇ! 一朝事あれば槍を担いで将軍様をお守りする覚悟があんだよ!」

『あー、田舎もんが言ってることはさっぱりわからねえ。まあいい。その分じゃルールも知らねえな。説明してやるから耳の穴かっぽじってよーく聞きやがれ』


 舞台上でも言い争いを繰り広げる土方を見上げ、沖田は「はあ」とため息をつく。


「何やってんの、あれ?」

「あれはボクシングのリングですネ! ボクシング――それは男と男の紳士の決闘! 血湧き肉躍る神聖な戦いの儀式なのデス!」

「えぇ……」


 拳を握りしめ瞳をキラキラさせているアーシアに沖田は困惑の声を漏らす。


「ああ、ソージ様はボクシングをご存知なかったデスネ! ボクシングとは、拳と拳だけで戦う紳士のファイトなんデスヨ!」

「そ、そうなんだ」


 仮にも聖職者であるアーシアがそんなものに喜んでいいのかとツッコミたくなるが、初詣のときのように屁理屈をこねられるだけだろう。

 諦めた沖田がリングの上に視線を戻すと、蛸髭が土方にルールの説明をしているところだった。


『いいか? 武器はなし。蹴りに頭突き、目つきと下半身への攻撃は反則だ。それから相手を掴むのもなし。3分12ラウンド、時間はあの砂時計で計る。テクニカルノックアウトはなし。万が一にも判定までもつれ込んだときはてめえの勝ちにしてやるよ。わかったな?』

「うるせえな。要は殴りっこだろ? おもしれぇ、乘ってやろうじゃねえか」

『へっ、威勢だけはいいじゃねえか。それじゃこれをつけろ』


 蛸髭が投げてよこした厚布の手袋――グローブを土方がはめると、地揺れのような歓声が沸き上がった。


――ォォォォォオオオオオ!!!!


 いつの間にかリングを囲んでいた骸骨たちである。

 どこから持ち出したのか折りたたみの椅子に腰を掛け、空の眼窩を赤々と燃やしてリングに向けていた。


 蛸髭は自分のコーナーに戻ると、セコンドの骸骨に左腕を差し出す。

 セコンドは鉤爪をきゅるきゅると回して取り外し、代わりに自分の左腕を肘から外して蛸髭にくっつけた。そしてその上からグローブをはめる。


「便利な体してるなあ」

「あれなら試合中に負傷を負っても交換可能デスネ。このアドバンテージ、果たして試合展開にどんな影響をもたらすのデショウカ。目が離せマセン」

「えぇ……」


 沖田とアーシアも骸骨が用意した折りたたみ椅子に座っていた。

 目の前には白い布がかけられた長机が置いてある。


(何なんだこれ……)


 戸惑う沖田をよそに、「カァァァアン!」と甲高い金属音が鳴り響いた。

 試合開始のゴングである。


 土方と蛸髭はリング中央で向かい合った。

 土方は上衣をはだけ、鍛え上げた鋼のような上半身を露出した。脂肪は薄く、胸や筋の筋肉がくっきり浮き上がり、さながら運慶の手になる不動明王像のようだ。

 アーシアが「ワォ……」と口元を覆って感嘆を洩らし、沖田は再び「聖女ってそれでいいのか……」という微妙な感情に襲われるが何も言わないことにする。


『へっ、おかもんのわりにはいい身体してるじゃねえか。だが、俺様からすりゃモヤシもいいとこだぜ』


 蛸髭も上衣を脱ぎ、リング外に投げ捨てる。

 その身体は分厚い筋肉に覆われていた。肌こそ蝋人形のように濁った白色で青い静脈が浮いているが、胸板は分厚く二の腕などはアーシアの腰ほどに太い。

 これに対し、アーシアは「あまりゴツいのはチョット」と顔を曇らせていた。

 沖田にはもう感想もない。


 改めて見ると体格の差は歴然だ。

 土方は身長170センチほどで当時の日本人としては大柄だが、白人に比べると背が低い。

 一方の蛸髭は190センチ余りはあろうか。

 身体の厚みも鑑みると、体重では倍近い差があるかもしれない。


「おいおい、鉤爪はあった方がよかったんじゃねえか? それくらいの不利は呑んでやるぜ」

『ふん、戯言を。ま、そんな口を叩けるのも今だけだがなッ!』


 空気が弾ける音がした。

 土方の顔がのけぞり、鼻から血が垂れる。


「なっ、何しやがった!?」

『はっはー! 見えねえか!!』

「ぐうっ!?」


 再び空気が弾け、二回、三回と土方の顔がのけぞった。赤い飛沫が空中に舞う。


「こ、これは一体どうしたことデショウ!? ヒジカタ選手、近づけないまま何かの打撃を受けてイル!?」

「左拳だね」


 驚くアーシアに、沖田は冷静に解説を加える。

 土方を襲った見えない打撃の正体は左手の打撃――ジャブである。

 ジャブはあらゆる格闘技でも最速の打撃と言われ、近代ボクシングの基礎にして奥義となる技術だ。横からだから沖田の目にも捉えられたが、正面からではまともに対応できたか自信がない。


「なるほど、神速のジャブ……! タコヒゲ選手、巨体に見合わぬ高速のジャブ連打!! ヒジカタ選手、圧倒的手数になすすべはないのデショウカ!?」

「なっ……めんなァッ!!」


 アーシアの熱のこもった実況が聞こえたのか否か。

 土方が歯を食いしばって猛打に耐え、強引に拳を振るう。

 数々の喧嘩自慢を一撃で粉砕してきた鉄拳だ。

 蛸髭の顔面を捉えたかと思えたそれは、しかし寸前で空を切った。


『はーはっはー! そんな大ぶりが当たるかよ!!』


 トントントンと小刻みに飛び跳ねながら、蛸髭は土方の反撃を軽快に躱していく。

 その隙間には啄木鳥きつつきの如く素早いジャブの連打を返す。

 土方の顔がみるみる腫れ上がっていく。


「ちょろちょろ逃げるんじゃねえッ!」

「ふん! 蝶のように舞い、蜂のように刺すのがボクシングの極意よ! さあ、俺様のステップを捉えられるかな!」


 蛸髭の巨体が体重を無くしたかのごとくリングを滑る。

 土方は追いすがって拳を振るうが、一撃も当たらない。


 見苦しいまでのワンサイドゲームだが、はっきり言って無理はない。

 このような技は日本には存在しなかったのだ。

 日本において当身打撃とはあくまでつなぎの技である。隙を作って投げや締め、関節技に接続するためのもので、間合いを詰める動きが必ず想定されている。ジャブのように速度に特化し、間合いを保ちながら放つ打撃など見たことも聞いたこともないのである。


「あー! ちくしょう! やめだやめだ!」


 土方はそう怒鳴ると、リングの中央で足を止めた。

 両腕をだらしと垂らし、拳を振るうことすらやめてしまった。


『くくく、もうギブアップか? やっぱりおかもんは口先だけの根性なし――』

「ちげーよ、馬鹿。てめえの拳がちくちくちくちく痒くてな。眠くなっちまっただけだ」


 ふわあ、と土方はこれみよがしに欠伸をしてみせる。

 その口腔は血だらけで赤く染まっており、足元もふらふらだ。

 誰がどう見ても強がりなのは明らかだった。


「おら、いくらでも殴ってきやがれ。按摩みてえでかえって気持ちがいいや」

『き、貴様……俺様を、<雷光>と言われた俺様のジャブを舐めるなよォ!!』


 巨体が瞬時に踏み込み、蛸髭の左拳がまさに雷の如く放たれた。


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