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第32話 登攀

 巨体はぐんぐん高度を上げる。あまつさえ羽ばたきのたびに加速をしているようだ。地上はみるみる小さくなり、都の街並みさえ玩具のようにちっぽけになった。


「都を真上から見下ろした人間なんて、天孫降臨以来だろうな」


 そんな軽口を呟きつつ、沖田は一歩また一歩と――否、一掴みまた一掴みと表現すべきだろう――巨体を這い登る。吹き荒れる風は激しく、油断をすれば容易く引き剥がされてしまいそうだ。先程の軽口も冷静を保つために無意識に口をついたものだったのかもしれない。


「うわっ!?」


 突如視界が真っ白になり、身体が濡れる。手を滑らしてはたまらないと沖田は登攀を一旦中止し、手に体毛を絡めてじっと堪える。急速に体が冷え、歯がガチガチと鳴りそうになるのを、加州清光を噛み締めて堪える。


 視界が白く染まったのは一瞬のことだった。

 次に沖田を染めたのは青。そして何も遮ることのない太陽の光。

 風は強いが雪は止んでいた。下方には白い雲がどこまでも広がっている。


「わ、雲の上まで出てきたのか」


 雲海と言ったか。浮世絵では見たことがある。富士を登るとこんな景色が見えるらしい。


「こんなときじゃなきゃ絶景なんだけどな!」


 身体は瞬く間に乾いていた。身を切る寒さはますます酷くなった気がするが、濡れて滑るよりはずっといい。沖田は気合を入れ直し登攀を再開する。尾を登り切ると揺れはだいぶマシになり、沖田は巨体の腰辺りから八木邸の広間よりも広いその背中を観察した。


 六対の翼は一つ一つが違っていた。

 先頭の一翼は鳶のように長い。次の一翼は蝙蝠のような皮翼。次は蜻蛉のような半透明。次は魚の鰭のよう。烏賊の耳のような扁平な羽。最後は蚯蚓のような何かが絡まりあって翼の形を成していた。


「斬るなら、鳥か」


 羽ばたくたびに動く背中の肉を見て、沖田はそう結論する。

 この怪物の身体が尋常の生物と同じとは到底思えない。

 しかし、何もかもがでたらめというわけはない、とも思う。

 魔術だか妖術だか知らないが、肉体は理合いに則って動くものだ。

 鳥の翼があるのであれば、鳥の理屈で動いているはずだ。


 巨体の背を這いながら、沖田は鶏を絞める手順を思い出す。

 江戸では武家町人を問わず鶏を飼うのが流行っていた。

 観賞用、愛玩用、採卵用と目的は様々であったが、採卵が目的の場合、卵を産まなくなったら絞めて肉を食べるのだ。


 首を落とすと水に浸けて血を抜き、次は軽く湯がいて羽をむしる。はらわたを抜いてよく洗ったら、関節を折って腱を切り、腿を外す。次は胸を割り、手羽と一緒にむしり取る。


 ……と、ここまでは今は関係ない。


 翼に相当するのは手羽の部分だ。これも関節の腱を切って外すのだが、通常の手順ならば胸の側から包丁をいれる。今回は逆側だ。運動する骨格の動き。それに張り付く筋肉の動きを頭の中に描き出す。


 それが終わる頃にちょうど目的の位置についた。人で言う肩と肩の間。肩甲骨の辺りだ。沖田は身を投げ出すように巨体に身体を張り付ける。その体表はひどく冷たく、とても血の通った生き物とは思えない。しかし、心臓の脈動が聞こえる。筋肉の収縮がある。骨や関節から生じるわずかな軋みが確かにある。


(斬れる……いや、斬る!)


 沖田は左手に長毛を絡め、右手に加州清光を握って立ち上がる。

 暴風が殴りつけるように沖田の身体に襲いかかるが、左手を引き絞り、両膝を柔らかく曲げて上体を安定させる。馬の早駆けと同じ要領だ。武士の生まれである沖田には、当然乗馬の心得がある。


「こんなところで役立つとは思わなかったけどねッ!」


 逆手に持った加州清光を気合とともに突き立てる。狙いは肩甲骨の下。骨の隙間に滑り込ませるように切っ先を入れる。紫色の靄が間欠泉の如く激しく噴き出した。


――SPGHRRRRRRRRRRRRRRRRRR!!!!


 咆哮。

 先程までとは明らかに異質な音色。

 巨大な翼が滅茶苦茶に羽ばたき、二回三回と回転する。

 凄まじい遠心力がかかるが、沖田は左手の長毛を手綱のごとく、突き立てた加州清光を猪牙舟ちょきぶねの竿のごとく操り、振り落とされぬまま傷口を少しずつ切り開いていく。


――SPGHRRRRRRRRRRRRRRRRRR!!!!


 急降下、急上昇。回転、回転、回転。

 炎に狂った虫のように巨体が天を舞う。


(参ったなこれは……!)


 沖田は歯を食いしばりながら、少しずつ、少しずつ加州清光を切り込んでいく。口にするほど簡単な話ではない。肉の中では骨が激しく動いている。それにぶつかったり挟まったりすれば爪楊枝よりも容易く折れるだろう。力任せに剣を握っているわけではなく、感触からの様子を探りつつ、絶妙に刀を操っているのだ。


――SPGHRRRRRRRRRRRRRRRRRR!!!!


 巨体の動きがまたしても変わった。

 今度はひとところに留まるように羽ばたいている。

 そしてアーシアを持っていない方の片腕で、己の背中に手を伸ばす。


「はっ! 背中に虫がいれば掻きたくもなるよな!」


 丸太のような五本の鉤爪が沖田めがけて降りかかる。

 沖田は横っ飛びでそれを躱しつつ、指の一つに斬りつける。

 大気を震わす咆哮とともに、巨大な腕がびくんと震えて引っ込んだ。


「ははっ! 爪の間は痛いだろ!」


 少し離れたところで長毛を掴んだ沖田が笑う。

 斬りつけたのは鉤爪の付け根、その内側だったのだ。

 指先の神経というのはあらゆる動物において敏感な箇所だ。

 人間相手の拷問でも、爪の間に針を差し込むというのは定番である。

 実戦に重きを置く天然理心流では、そうした人体の弱点も兵法の一部として伝えている。


 巨体が悶え、再び鉤爪が降る。

 斬る。

 鉤爪が降る。

 斬る。

 降る。

 斬る。

 斬る。


――SPGHRRRRRRRRRRRRRRRRRR!!!!


 最後は二指を一気に斬りつけ、怪物の五本の指先からはすべて紫の靄が噴き出していた。巨大な手のひらは中空でわなわなと指を震わせながら、視界の外へと引っ込んでいく。


「片手は潰した。それなら次は――」

「きゃぁぁぁあああっ!?」


 アーシアの悲鳴。

 暴風に金髪を煽られながら、空中に放り出されたのが見える。

 怪物の右腕が降る。

 アーシアを手放したのだ。

 沖田はその攻撃を無視し、アーシアに向かって飛ぶ。


(届いてくれよ!)


 空中で身を泳がさせながら、どうにかこうにかアーシアの身体を抱き止める。

 怪物は遥か頭上でじたばたと暴れていた。どうやら沖田が背中からいなくなったことに気がついていないらしい。


「大丈夫? 怪我はない?」

「怪我はないデスガ……」


 自身を気遣う沖田の言葉に、アーシアは下へ向けた視線で応える。


「……これから、大怪我をしそうデス」

「あー……」


 二人の眼下には、分厚い雲とその隙間から除く雪をかぶった山々が広がっていた。


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