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第9話 洗濯

「あんたが坂本龍馬!?」

「なんじゃ、知っちょったか。わしも有名になったのう」


 まさか神社の境内で陽気に歌っていた男が坂本龍馬だったとは。

 そういえば、一橋慶喜から坂本龍馬は土佐出身だと聞かされていた。

 侮らず、少なくとも誰何すいかはするべきだったと沖田は唇を噛みしめる。

 アーシアが感じた「魔の残り香」とやらも、白峰神宮で坂本龍馬から移されたものだったのだろう。


「でも、これは好機だ」


 沖田の位置から火の見櫓までは二十間約36メートルもない。一足飛びの距離だ。ディープワンたちは堀から上がったばかりで、そこまでの道のりにはほんの数体がいるだけだった。

 材木問屋を固めている男たちもまだまだ意気軒昂だ。新手が寄せてきてもしばらくは持ちこたえるだろう。


「なら、大将首狙いだ。魔術だかなんだか知らないけど、こういうのは術者を斃せば解けるものなんだろ?」


 沖田は火の見櫓に向かって駆ける。

 立ちはだかるディープワンは行きがけの駄賃とばかりにすべて切り捨てる。それはまるで血をまとう一陣の風の如く。


「おお、わしを狙うがか。思い切りがえいのう」

「私が行きましょう」


 火の見櫓から以蔵が飛び降り、物音ひとつ立てずに着地した。十間約18メートルもの高さがあるにも関わらずだ。帯革ベルトに吊るした肥前忠広ひぜんただひろが引き抜かれ、乱れた丁子刃ちょうじばがぎらりと光る。それはさながら獣の牙のよう。刃は厚く反りも深く、それ自体が一本の爪牙のようでもあった。


 沖田の足が止まる。

 剣の間合いからはまだ遠い。しかし、以蔵から放たれる一種の妖気とでも言うべきものが安易に踏み込ませない。


 背中には女子供を守る男たちの喊声かんせいが聞こえてくる。新手とぶつかったのだろう。男たちの実力はどれだけ高く見積もっても、せいぜいが町の喧嘩自慢といったところだ。戦いが長引けば疲労で崩れていくのは目に見えていた。


「どうしました? 早く私を倒さなければ、社長の下には届きませんよ」


 そんな沖田の内心を見透かしたのか、以蔵が淡々と告げてくる。

 時間は必ずしも沖田の敵ではないのだが、不確実なものを当てにするわけにもいかない。睨み合っていても埒が明かぬと、沖田は平晴眼から大上段に構えを変える。


「なあに、走ってきたから少し休憩してただけだよッ!」


 軽口と共に踏み込み、唐竹割りに斬り込む。

 以蔵は半歩下がってそれをかわし、脇構えからの横薙ぎで反撃を試みる――


「ほう?」


 ――が、踏みとどまった。以蔵の顔面を薄紙一枚の距離で白刃が通り過ぎていく。


 天然理心流龍尾剣だった。

 見え見えの上段でわざと隙を作り、反撃してきたところに電光石火で刃を返して相手の顔面を顎から断ち割る奇襲技だ。近藤勇がこれの名手であり、沖田もその薫陶くんとうを受けて技を練り上げていた。


 だが、かわされてしまった。

 初見で龍尾剣に対応できたものなど見たことがない。沖田の頬を冷たい汗が伝う。


「面白い技ですね。こうですか」


 以蔵は肥前忠広を無造作に上段に構える。

 先程の沖田の構えの鏡写しだ。

 いま見た技を再現してみせようというのか。

 沖田は己の血が沸騰したかの如く熱くなるのを感じた。

 天然理心流の技は見様見真似でできるものではない。

 底が知れない男だが、思い上がりを後悔させてやる。


 沖田は半歩間合いを詰め、誘いをかける。

 以蔵の剣が唸りを上げて振り下ろされる。

 沖田は退かず、逆に半身で一歩踏み込む。


 間合いを潰し、至近距離で後の先を打つ。

 これこそが秘技龍尾剣への対抗策だった。


 龍尾剣は奇襲の剣。知れば対応も容易だ。

 見様見真似の未熟な技ならばなおのこと。

 沖田の加州清光が以蔵の頸動脈へと迫る。


 だが――


「くっ!?」


 沖田は身をひねり、地面を転がった。

 そのすぐ上を肥前忠広の凶暴な剣閃が通り過ぎていく。


「ふむ、詰められたらこうかと思ったのですが、一手遅れましたね」


 再び間合いを取った沖田を見ることすらせず、以蔵は先程の動きを繰り返している。それは龍尾剣の別型のひとつだった。

 この以蔵という男は、初見で龍尾剣を見切っただけではなく、己の工夫のみでその発展型まで我が物にしていたのだ。


 おそるべき剣才。

 沖田自身も齢十五にして天然理心流道場の塾頭を任された麒麟児であるが、入門は九歳だ。そして修行を欠かした日は一度としてない。そして今なお、龍尾剣については近藤勇の域に達していないと思っている。


(それをこの男は……)


 唇を噛みしめる沖田の頭上に、龍馬の声が降った。


「総司さん、おまさんわしの仲間にならんがか? おまはんほどの男が味方になってくれたら、これほど心強いことはないぜよ」

「はっ? 何を言ってるんだ?」


 突然の申し出に沖田は困惑する。撹乱を狙っての虚言だろうか。

 そんな沖田に構わず、龍馬は言葉を続ける。


「わしがしゆうがは日本の洗濯じゃ。国難に狼狽えることしかできん幕閣、この期に及んで旧弊の墨守と保身に汲々する老害、それに媚びへつらう欲ボケのべこのかあ馬鹿者ども! こがな汚れを綺麗さっぱり洗い流して、新しい日本の夜明けを迎えるがじゃ!」

「へえ、それはご立派なことで」


 沖田はこれみよがしに辺りに視線を向ける。そこに見えるのは町人たちの死体だった。棒手振りの男。前掛けをした酒屋の丁稚。高島田に結った若い娘に、半裸の駕籠かき、むしろに横たわる乞食、足萎えの老人や風車かざぐるまを持った子供。いずれもディープワンの鉤爪に引き裂かれ、無惨な死体となって転がっている。


「で、これもあんたの言う汚れ・・がなのか」

「自分で考えずお上に従うだけの大人も同罪じゃ。若い娘や子どもは見逃すよう命じたんじゃがなあ、ディープワンどもはろくに命令を聞かんで、わしも参っちゅうちや」


 龍馬は頭をかいて苦笑いした。


「あんたが子ども好きってのは一応嘘じゃなかったんだな」

「もちろんじゃ。言うちゃろう、子どもは日本の夜明けの礎になるがじゃ。若い娘は子どもを産める。どっちもこじゃんと大事な存在ぜよ」

「なるほど、あんたの言うことは筋が通ってる」

「そうじゃろう! わかってくれるがか!」


 膝を打って相好を崩す龍馬を、沖田の鋭い眼光が貫く。


「外道とのしての筋だがなッ!」


 刹那、沖田が動いた。

 以蔵に向かって加州清光の切っ先が放たれる。

 一撃目は内篭手。以蔵は咄嗟に肥前忠広の鍔元で受ける。

 二撃目は目に向けた突き。以蔵は仰け反り、紙一重の間合いでかわす。

 そして張られた胸に、三段目の突き。

 切っ先が以蔵のシャツのボタンを割って胸に沈んだ。


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