「よう越さはりマシタ。おいでヤス」
「えっ、どなたですか?」
菱屋に戻った沖田を出迎えたのは、見るも
割れしのぶに結った黒髪は
「わたくしがわかりませんカ?
「す、すみません。本当におぼえてなくて……」
沖田の頬を冷や汗が伝う。付き合いの多い近藤や、それなりに遊ぶ土方とは違い、沖田は島原や祇園に足を伸ばしたことはほとんどない。数少ない機会も隊士の慰労などで、それもほどほどに付き合ったら帰ってしまうのだ。そのわずかな記憶を必死で探るが、まったく心当たりが見つからない。
沖田が焦っていると、菱屋の女中たちが口元を押さえて肩を震わせている。どういうことかと改めて舞妓の顔を見て、ようやく青い瞳に気がついた。
「もしかして、アーシアさん?」
「わあ! やっとわかってくれマシタカ! でも、変装は完璧ってことデスネ!」
「いやいやいや、それじゃ駄目でしょ!?」
「えっ、なぜデスカ?」
目を丸くするアーシアに、沖田は眉間を揉む。いくら異人とわからなくなっても、舞妓の姿ではさすがに目立ちすぎるのだ。しかし、異人のアーシアに日本の常識などわかるまいし、舞妓の格好も当然アーシアの望みではあるまい。
沖田は目を三角にして女中たちに言った。
「一体誰の悪戯ですか?」
「お人形さんみたいであんまり可愛らしいから、ついつい」
「出来心どすなあ」
「出来心って……」
と、ため息をつきかける沖田に、
「ご心配なさらずとも、ちゃんと普通の町娘に見える
「沖田はんが悪いんどすえ。こんな可愛らしい子ほっぽってどこぞ出かけてしまいよるから、時間が余ってこんな遊びをしてたんどす」
女中たちから口々に言われて沖田はバツが悪くなる。
あの妙な男と過ごして時間を忘れてしまったのは確かだった。
「目の色だけはごまかしようがあらしまへんから、お気ぃ付けておくれやす」
「ええ、わかりました」
「それで、綺麗どすなぁ? 女がめかしこんだら褒めてやるのが男の甲斐性どすえ」
「えっ!?」
思いがけない方向に話を振られ、沖田の頬が熱くなる。
「これは綺麗じゃないデスカ? わたくしはとっても綺麗だと思いマス!」
そんな沖田の動揺を知ってか知らずか、アーシアが袖を振ってくるりと回る。
香を焚き込んでいたのか、甘い香りがふわりと漂い、沖田の小鼻がぴくりと膨らんだ。
「アレ? おかしな香りがしますネ」
「えっ!? いや、別に変な匂いなんかは……」
アーシアがずいと近づき、沖田の胸元でクンクンと鼻を鳴らす。
甘い香りが濃くなり、沖田は心臓が跳ね上がって口から吐き出しそうだった。
しかし、沖田を見上げるアーシアの瞳は真剣だった。
「魔の残り香がシマス」
「魔の残り香?」
「魔術の……ネクロノミコンの
なぜそんなものが自分に。
唐突な言葉に、沖田が聞き返そうとしたときだった。
――カンカンカンカンカン!――
すわ何事かと沖田は菱屋から飛び出す。
「たっ、助けてくれぇ!」
「化け物っ! 化け物が出たぞ!」
「うえーん! おかあちゃーん!」
悲鳴。悲鳴。悲鳴。
堀川通は阿鼻叫喚の
幾十もの異形の群れが堀川通を行く人々に襲いかかっていたのだ。
魚と蛙を混ぜ合わせたような頭。ぬらぬらと粘液にまみれた皮膚は青黒く、細かな鱗に覆われている。鯰に似た太い尾を振り回し、両腕の鋭い鉤爪で幾人もの人々を切り裂いている。
「なんだ、この化け物は!?」
「これは深き者共……ディープワン!」
沖田にわずかに遅れたアーシアが怪物の正体を看過する。
「海の邪神
見れば、人々は皆が皆逃げ惑うばかりではなかった。一部の浪人ややくざ者が刀を抜いてディープワンに立ち向かっている。しかし、斬りつけても斬りつけても傷を与えられず、逆に長い腕の反撃を受けて傷を負っていた。
「っきしょう! まるで斬れねえじゃねえか!」
やくざ者のひとりが材木問屋の前で長ドスを振り回し、ディープワンと対峙していた。太刀筋はめちゃくちゃだが度胸だけはあるのか、踏み込みはしっかりしている。振るった長ドスも何度もディープワンに命中しているが、表面で滑って傷を与えられていない。
一方、やくざ者の方はすでに傷だらけだ。深手はないようだがあちこちに傷を作り、綿入れが血で濡れている。
「おじちゃん、怖いよう!」
「安心しろい! こんな
よく見るとやくざ者の後ろには幼児がひとり庇われていた。しゃがんで泣きべそをかきながら、やくざ者の背中をすがるように見つめている。
「アーシアさん、俺から離れないで」
「えっ? は、はい!」
沖田は駆けながら抜刀し、やくざ者とディープワンの間に割って入った。
「格好つけてるところ悪いけど、助太刀させてもらうよ」
「間に合ってるよ。って言いてえとこだが助かるぜ。だがお侍さん、こいつに刀は効かねえ――」
やくざ者が言い終わる前に、沖田は鋭い掛け声とともに刀を振り下ろしていた。
剣閃はディープワンを袈裟懸けに両断。ディープワンの上半身がずるりと斜めに滑り、どさりと落ちて地面を青黒い血で汚した。
沖田はびゅんと血振りをし、愛刀加州清光の刃を改める。
「うん、確かにちょっと斬りにくいかな」
「ちょ、ちょっとってあんた……」
「聖騎士団でも斬れなかったのデスガ……」
あまりの剣術の冴えに、やくざ者とアーシアの口が揃ってぽかんと開く。
「呆けてる暇はないよ。ここなら籠城にちょうど良さそうだ。手伝ってくれ」
沖田が作戦を手短に話すと、二人は真剣な面持ちで頷いた。