「そのサカモトってのは……いや、その前にネクロなんとかっていうのは何なんだい?」
アーシアに向けた質問だったが、応じたのは慶喜だった。
「ネクロノミコン、だな。人を異形に変え従える力がある。死者も生者も自在にだ。お主も見ただろう、蟲や兵器と融合した男を」
慶喜は立ち上がって障子戸を開いた。
白砂の庭に二つの死体が並べられている。死体は着物が剥ぎ取られ、素肌があらわになっていた。
一体は芹沢鴨のもの。左腕の肘から先が大筒に変わっている他、昨晩は見えなかったが全身のあちこちに金属製のネジや歯車が見えた。
もう一体は虚無僧のもの。黒い碁石のような白目のない瞳に、縦に裂けた口。着物に隠れていた部分には棘のような剛毛がまばらに生え、脇腹からは昆虫の足が二対伸びていた。
「芹沢鴨は兵器と、田中新兵衛は蜘蛛と混ぜ合わされたのだ」
「田中新兵衛? あの人斬り新兵衛ですか?」
「うむ、そうだ」
蜘蛛男の正体を聞かされて沖田は驚いた。
田中新兵衛は天誅と称して幾人もの要人を斬った土佐勤王党の暗殺者だ。討った相手を河原や町中でさらし首にする残忍な手口で知られていた。奉行所が七月に捕らえたものの、獄中で自害され情報は引き出せていない。新選組も追っていた相手だけに、悔しい思いをしたのを覚えている。
「あっ、そういえばもうひとり、
「余の手の者が駆けつけたときにはもう逃げていた。鼠のような面相をしていたそうだが、それに見合って鼻が利くようだ」
それを聞いて沖田は合点した。いくら沖田が小柄とは言え、アーシア一人でどう運んだのか疑問だったのだ。慶喜も救援を寄越しており、沖田が気を失った直後に到着したというわけだった。
「ともあれ、死体を操る怪しい技ですか。確かに恐ろしいですが……」
それだけで世界が滅ぶなど、さすがに大げさではないかと沖田は思う。
「いえ、それはネクロノミコンの力のほんの一部でしかありマセン。古くは三千年前、出エジプト記にある人も家畜も貪る蝗の大群。近くは五百年前、欧州で三千万人を死なせた黒死病の流行もネクロノミコンがもたらした災いデス」
「三千万人!?」
「この
「日本人が全員……」
途方もない規模の話に沖田の想像が追いつかない。
目をパチクリさせながら、なんとか言葉を絞り出す。
「でも、そんな危ない物がなんで盗まれちゃったんですか? というか、燃やしてしまえばよかったのに」
「ネクロノミコンは燃やすことも破ることもかなわないのデス。そして、もちろん厳重に封印し、聖騎士団が警護に当たっていマシタ」
「それなら、なぜ?」
聖騎士団というのはよくわからなかったが、南蛮の武士のようなものだろうと理解する。
「サカモト・リョーマが魔物の軍団を引き連れていたからデス。警護の聖騎士たちは百人以上が死にマシタ……」
アーシアが目を伏せる。その長いまつげの端に涙が光るのが見えた。聖騎士たちの中にはアーシアと親しい者もいたのだろう。気丈に振る舞ってはいるが、まだ年端もいかない少女だ。沖田の胸がしくりと痛む。
とはいえ、斟酌してやれる状況ではない。沖田は素直に疑問をぶつける。
「でも、それって妙じゃないですか。それではサカモトってやつはネクロノミコンを手に入れる前から魔物を操っていたことになる」
「おそらくはネクロノミコンの写本か断章を手に入れていたのデショウ」
「うむ、手の者の調べによれば、坂本龍馬は貿易商を営んでいてな。一時期は諸国の奇書や珍本を熱心に集めていたらしい」
「貿易商? 商人なんですか?」
「いや、元土佐藩士……ということになっているが、実際はわからん。郷里の者たちに尋ねても、一様にぼんやりした記憶しかないそうだ。おそらくはやつの魔術にかかっているのだろう」
「はあ、ここでも魔術ですか……」
怪談やお伽噺を大真面目に聞かされているような気分になってしまう。
しかし、芹沢や新見が怪人として蘇ったのは己自身が目の当たりにした事実なのだ。どれほど信じがたくとも、もはや受け入れるほかない。
「ははは、狐につままれたような顔をしておるな。無理もない。余とて自分自身が襲われていなければこんな話は信じなかったであろう」
「ですよね……って、一橋様が襲われた!?」
「うむ、ほんの数ヶ月前のことだ。表沙汰にはしていないがな」
慶喜によれば、五月に江戸に帰る途中の行列を狙われたとのことだった。なんとか撃退したが、襲撃者たちは田中新兵衛や芹沢のような異形であり、背景を調べるうちにヴァチカンとつながったのだそうだ。
「なるほど、それで一橋様がアーシアを匿ったのですね」
「そういうことだ」
「しかし、ばちかんというところもひどいですね。女の子ひとりを異国に送り込むなんて……」
「それにも理由がある」
眉をひそめる沖田の言葉を、慶喜が遮った。
「このアーシア嬢には生まれつき特別な力があるそうだ。ひとつはネクロノミコンの狂気に飲まれぬ力。心の弱いものでは表紙を見るだけでも発狂するそうだが、彼女だけは触れても読んでも問題ないらしい」
沖田がアーシアの方を見ると、えっへんと胸を張っている。
「ふたつめはネクロノミコンを感知する力があること。魔の気配が近づくと肌で感じるのだそうだ。あまり遠くからはわからんそうだがな」
アーシアはコーヒーを啜って得意げに微笑している。
沖田は内心、少しだけイラッとした。
「最後はこちらの事情だな。いまのこの国で、異人の集団を自由に歩き回らせることができるか?」
「それは……無理ですね」
尊王攘夷を謳い、血気に逸る者たちが掃いて捨てるほどいるのだ。どれだけ気をつけても探索どころではなくなってしまうだろう。
「であろう。五年もすれば事情も変わっていただろうに、坂本龍馬という男も面倒な時期に事を起こしてくれたものよ」
「えっ!? 一橋様は開国派なのですか?」
「開国派も何も、最初からこの国は海で世界中とつながっておる。国が閉ざされたことなど天地開闢の頃から一度もないのだよ」
あっけらかんと笑う慶喜に、沖田は唖然とし、それから妙に感心した。
この一橋慶喜という男に比べると、佐幕だ倒幕だ、攘夷だ開国だなどと議論している連中が小さく思えたのだ。
「それで沖田君、君を男と見込んで頼みがある」
「はっ、はい!」
慶喜の手が沖田の両肩をがしりと掴んだ。惰弱な文人の手ではない。数え切れぬほど剣をふるい、ごつごつと皮の硬くなった武人の手だった。
その感触に、沖田は思わず背筋を伸ばす。
慶喜は沖田の目を見据えて言った。
「アーシア嬢に協力し、坂本龍馬からネクロノミコンを奪還する手助けをしてほしい!」
「はいっ! って、ええーっ!?」
突然の依頼に沖田は頓狂な声を上げてしまった。
「なぁに、仕事のことならば気にするな。
「ソージ様がわたくしの守護騎士になってくださるのなら安心デス!」
なぜ自分が、と思う沖田だったが、
そんな沖田の心中を知ってか知らずか、アーシアは沖田に向かって右手を差し出した。沖田は反射的にその手を取った。
「よろしくお願いしマス。わたくしの騎士サマ」
「う、うん。よろしく……」
沖田が握ったアーシアの手は、想像以上に小さく柔らかく、少し力を入れれば潰れてしまうのではないかと思うほどに儚げだった。