沖田が目を覚ましたのは、温かい布団の中だった。
綿のたっぷり詰まった敷布団は柔らかく、よく干してあるようで湿り気もない。新選組屯所の
「ここは……」
「ああ、よかった! お目覚めですネ!」
額に冷たい感触。濡れ手拭いだろう。まだぼんやりとしている頭にひんやりと心地よい。幼い頃、熱を出したときにはこんな風に介抱されていたなと思い出す。ああ、みつ姉さんは元気だろうか。江戸も近頃では物騒になっていると聞く――
「ミツ? それがソージ様のお姉様のお名前ですか?」
「えっ!?」
沖田は慌てて身を起こした。
どうも夢うつつでうわ言を呟いてしまったらしい。沖田みつは幼少時に母を亡くした沖田にとって母代わりであり、病気や怪我で弱気になったときはついつい思い出してしまうのだ。
(うわ言で姉さんの名前を呼ぶなんて、まるで子どもじゃないか)
沖田は赤面しつつ、胸元に落ちた手拭いをいじりながら辺りを見回す。
床は板敷きではなく畳敷きで日焼けもなくぴかぴかだ。障子からは柔らかい日差しが透けている。欄間には松林に彩られた入り江の景色が彫り込まれ、門外漢の沖田にも見事な出来であることがわかった。
芹沢を倒し、気を失った後、どこかの藩邸に担ぎ込まれたのだろうか。
沖田は布団から出て正座に直り、居住まいを正した。
「ええっと、君が……アーシアさんが助けてくれたのかな? ありがとう」
「こちらコソ! わたくしこそ助けていただきありがとデシタ!」
沖田が軽く頭を下げると、アーシアはいっそう深く頭を下げて礼を言った。細やかな金髪がさらさらと垂れ、朝日を返してきらきらと光る。その美しさに、沖田が思わず見惚れかけたときだった。
「邪魔をする。おお、君が沖田君だね。無事目を覚ましたようで何よりだ!」
唐突に障子が開き、ひとりの男が入ってきた。
月代をきれいに剃り上げ、身ぎれいにしている。歳の頃は二十歳半ばか。やや面長で、くっきりした二重まぶたの大きな瞳がやけに印象的だ。
「あの魔物をたった一人で二体も斬ってしまうとは。さすがは音に聞こえた新選組一番隊組長だ! よろしく頼む!」
男は膝をつき、沖田に向かってまっすぐに右手を突き出してくる。
沖田は「は、はあ」と間の抜けた返事をすることしかできなかった。唐突に現れて一方的に喋りまくるこの男は一体何者なのだろうか。
「ヨシノブ様、ソージ様がびっくりしてるデスヨ」
「むっ、そうか。そういえば握手は南蛮の風習だったな。近頃は外国との折衝ばかりだったからうっかりしておったわ」
男は「わはは」と笑って畳にあぐらをかき、背筋を伸ばす。
いかにも軽薄そうだった男がその所作ひとつで
「改めて挨拶しよう。余は
「はあ、私は新選組一番隊組長沖田総司……って、ええっ!? 一橋様!?」
男の名乗りを聞いて、沖田は慌てて平伏する。
一橋慶喜といえば言わずもがな幕府の重鎮中の重鎮だ。徳川
思いがけない大物の登場に冷や汗をかく沖田に、慶喜は笑いながら声をかける。
「そうしゃっちょこばるな。私も実は堅苦しいのが苦手での。『頭が高ぁい!』などと、ああいうのがとにかく嫌なのだ。ああそうだ、こっちに来い。面白いものがある」
慶喜は立ち上がると、振り返りもせずずかずかと歩いていく。
アーシアもそれに続くので、沖田は仕方なくそれについて行った。
「さあ、座れ。これならば頭が高いもクソもない」
「ああ、正座は足が痺れるので助かりマス!」
「これは……?」
連れて行かれたのはテーブルと椅子が設えられた部屋だった。
沖田は勧められた椅子に恐る恐る腰を下ろすが、なんだかぐらぐらして落ち着かない。
「椅子に畳は合わんから外せと言ったのだがな。板敷きでは格式が云々と反対されてそのままだ。いささか安定が悪いが慣れれば気にならん。おお、そうだ。カッフェーを飲むか? これも面白いぞ」
「か、かっふえ?」
沖田は南蛮式の茶碗に注がれた黒い水を睨んだ。
泥水だってここまでは黒くならない。こんなものを飲んで大丈夫なのかと思うが、慶喜とアーシアはにこにこと口に運んでいる。沖田も意を決して一口すする。
「うげっ!? げほっ、げほっ」
そしてむせた。炒りすぎて炭になった豆のような味がする。
「わははは! ブラックではキツかったか。慣れるとこの苦みがたまらんのだがな。どうだ、砂糖を入れるか?」
「い、いえ。結構です。それよりも、これはどういうことなんでしょう? 一橋様がなぜ異人を……」
アーシアが連れて行けと頼んだ「ヨシノブ様」とは、まさに眼前の一橋慶喜に他ならないだろう。異人の尼僧と将軍後見職にどんなつながりがあるのか、さっぱり見当もつかない。確かに死んだはずの芹沢が襲ってきたことといい、わからないことだらけだ。
「ふうむ、その説明をせねばならぬが、どうもややこしくてのう。どこから話せばよいものか……」
「このままでは日本が、いえ、世界が滅びるのデス!」
「は?」
アーシアの突拍子もない言葉に沖田は目を丸くした。
頭がおかしいのかと疑うが、隣の慶喜まで神妙な顔で頷いている。
「すべては一人の日本人がヴァチカンの禁書庫に忍び込んだことから始まるのデス」
アーシアが言葉を続ける。明るく元気だった声色が重く沈み、青い瞳には真剣な光が宿っていた。
「その男の名はサカモト・リョーマ。彼から魔書ネクロノミコンを取り返さなければなりマセン」