高鳴る心臓に落ち着けと言い聞かせながら、マルタンはユウタ達へ取引を持ち掛けた。薬と引き換えに、アドラを解放しろ、と。
フレイアとの戦闘の手を止めていたユウタは、じっとフレイアを見つめて自分への殺意を探っているようだった。
「……行きなよ、あんたの仲間の命がかかってんだよ」
自分から攻撃を仕掛けることこそしないが、フレイアはユウタからの斬撃がくる可能性に備えて防御の姿勢を崩さない。互いに緊張の糸が張り詰めている状態で、フレイアはユウタに仲間の命を救うよう言った。――しかし。
「……ネージュ!」
「はい」
「ロベリアから、リングを譲り受けろ」
「……え?」
その言葉に、フレイアも耳を疑った。
「ロベリアではこの女をもう制御できないんだろう、そいつがリングをしたまま死ねばハルピュイアは自由になる。ネージュ、お前が……」
呪術師であるロベリアでなければ、アドラを操ることは出来ない。足環で捕縛した相手を操るためのリング、それがロベリアの人差し指にはめられていた。薄紫色に光る宝石がついたリングは、しずかな光を湛えている。
「何言って……捕縛の足環は呪術師じゃないと繰ることはできないでしょ!?」
フレイアはたまらず声を荒げる。それに、彼女が『死ねば』だって? ロベリアが命を落とすことよりアドラが解放されてしまう方に意識が向いている。リングを着けている者が生きてさえいれば、操ることは出来なくとも縛り続けることはできる。その仕組みを利用し、せめてアドラを人質として手元に置いておこうという算段なのだろう。非人道的な発言に、フレイアは怒りを隠せない。そもそも、人道に反するような取引を持ち掛けたのはこちらといえば元も子もないのだが、戦においてある程度の駆け引きは必要悪だ。それくらいは次期領主としてフレイアもわかってはいた。……その駆け引きに乗らないのも、必要悪か……?
「酷いですわ!!」
今まで聞いたことのない声量で、ネージュが叫んだ。
(おお、女声を維持したままよく叫んだな……)
自分と術者であるロベリアとが天秤にかけられている状態ではあるが、アドラはネージュの……セルジュの演技力に妙に感心してしまった。こういうのも戦には必要なのかー、なんて。
「ユウタさんが……そんな、そんな酷いことを仰るなんて……」
震えながら、ネージュは涙を零す。白い頬に伝う涙の雫が、つ、と美しく線を描いた。泣き顔さえ神々しく、様になる。それが、『ネージュ』なのだ。アドラはその姿に感心しながら横目で見ていた。
「な、……ネージュ、これは戦いで……」
ユウタがうろたえる。
ふと思い出した。
――気づくわけねーだろ、あいつオレの事好きだもん。
あの夜、ネージュの皮を脱いだセルジュが発した言葉。
ユウタの反応を見ると、それが憶測ではないということが如実に伝わってくる。
「そんなことは存じ上げておりますわ……いくら戦いでも、共に在る仲間の……救えるかもしれない命を見殺しにするだなんて!」
己の膝にロベリアの頭を乗せて、自由になった両の手で花のかんばせを覆うと、ネージュは声を上げて泣き出した。
「ネージュ……ッ、泣かないでくれ……」
ユウタの動揺が手に取るようにわかる。おろおろと狼狽えて、ついにフレイアから視線を外した。もちろん、それでもフレイアはユウタに攻撃を加えるようなことはしない。
「酷い……ユウタ様、見損ないましたわ……」
ネージュの膝の上では、がくがくと震えながらロベリアもまた泣いている。ネージュの白いワンピースの太ももに、涙のシミができていった。
だいぶ体の自由が利くようになってきたアドラが、小声でメリアを呼ぶ。
「治療してくれてありがとな、だいぶ良くなってきた」
「あら、お安い御用よ。足環の呪縛はどう……?」
「あのロベリアとかいう女の力が弱まってるからだいぶ……でも、やっぱり術者が死ぬか、術を解除するかしないと完全には自由にはならねえな」
声を潜めた二人の会話は、ユウタ達には全く届かない。メリアは、アドラが完全に呪縛から解放されたときに無理なく動けるよう、治癒魔法を続ける。
「……マルタンなら、上手くやってくれると思うわ」
「ああ、あたしもそう思う」
顔を見合わせて、笑う。
「ネージュ、落ち着いて……」
ユウタはネージュの肩に触れようとした。それを、ネージュは勢いよく払いのけてユウタをきつと睨む。
「何を仰いますの!? 大切な仲間が死の危機に瀕しているのに、落ち着けだなんて……どうかしていますわ! いいえ、わたくしが未熟だからそのように感じるのでしょうけれど……世界を救う勇者様たるあなた様が、ご自分の仲間をお見捨てになるなんて……しかも、それが二度目だなんて……!!」
さめざめと泣きながらも、ネージュは厳しい口調でユウタを非難する。
二度目。
あなたが仲間を見捨てるのはもう二度目なのですよ。
そう強調しながら。
フレイアはそのやり取りを黙って後方で見ていたが、勇の近くへ歩み寄ると声を潜めて問う。
「イサミ、薬を渡すの?」
勇は感情が抜け落ちたような瞳でユウタ達を見ながら答える。
「……こちらの要求を呑んでもらえたらね」
普段は少しふわふわしているような、頼りなさげな顔をしている勇の冷たい声色に、フレイアはぎょっとして、それから静かに視線をユウタの方へ戻した。
(そりゃそうか、アドラさんのことがかかってるんだ、こっちだって泣き落としに応じるわけにはいかないね……)
泣き落としに負けているのは、むしろユウタの方だった。先ほどから、ずっとおろおろネージュのそばで何か弁明している。そのすべてを突っぱねる様に、ネージュはユウタから顔を逸らして泣いていた。どんな言い訳をしたって、ネージュはもうユウタを許すつもりなんかないのだろう。――アドラを解放して、勇が持っている解毒薬を受け取るまでは。
「ああ、もう……わかった、君が泣き止むのならば……応じよう」
ついにユウタは折れる。
ネージュはひっくひっくとしゃくり上げる声を少しずつ落ち着かせ、ゆっくりと息を吐く。
「ほん、とうですか……」
ぐす、と鼻をすする音がいじらしい声色の合間に聞こえる。
「だから、どうか見損なったなんて言わないでくれ……」
すっかり弱り切ったユウタの情けない声に、アドラは笑いだしそうになるのを抑える。ネージュの正体を知ってしまったら、きっとユウタはひっくり返るだろう。
「ユウタ様……!」
取引に応じるのですね、と、やっと顔を上げたネージュは、涙で濡れた頬を拭い、優しく微笑んだ。
ネージュの膝の上では泣き疲れたロベリアがぐったりと体の力を失い、荒く呼吸をしている。
「指輪を、お借りしますわ」
ネージュはロベリアの右手の人差し指から指輪を抜き取ると、手のひらに乗せて勇の方へ差し出した。
「お願いします、解毒薬を」
足環と対になる指輪がなければ、もうアドラを操ることはできない。勇は指輪を受け取ると、手にしていた『解毒薬』をネージュに手渡した。勇は『救世の光』の中で登場した捕縛の足環の性質を思い出す。術者が死んでしまうか、意図的に術を解除するまでは操る効果は消えない。あのアイテムは、足環の力がなくなると足環も物理的に消えていた。足環を繰る側の指輪も同時に……ということは。
勇は躊躇せず、その指輪を地面に落とす。そして……。
「フレイア、これを砕いてもらっても良い?」
「え、砕いちゃっていいの?」
「うん、おそらく物理的にこれを壊せば足環が外れると思う」
その様子を、苦々しい顔をしたユウタが見ている。
ネージュは受け取った薬をさっそくロベリアに飲ませていた。
――専用の解毒薬などと嘯いたが、今回もアイザックの時と同じく、なんのことはない麻痺治しの薬だ。ネージュも恐らくそれをわかっているだろう。
フレイアがその巨大なハンマーを指輪に向かって思い切り振り下ろした。だん、と重い音が響き、石のタイルの上にあった指輪がひしゃげて、ついていた宝石は砕け散っていった。薄紫色の破片がきらきらとあたりに舞う。と、同時に、アドラの足に嵌っていた足環も音を立てて砕けて消えた。
「あっ……」
メリアが声を上げる。アドラは自由になった足首を見て、に、と口角を吊り上げ、メリアと視線を合わせた。メリアが頷くと、アドラはがばりと起き上がる。先刻までかけ続けてもらっていた治癒魔法のおかげで、体に痛むところはない。
「クソッ……」
ユウタが歯噛みしているのを見て、アドラは鼻で笑った。
「あんたともここでおさらばだな。世話になったね」
つかつかと歩いてユウタの眼前に出て、アドラはじーっとユウタを見つめ、静かに告げた。
「少しだけ一緒に旅をしたよしみで言っとくけどよ。あんた、その『癖』なんとかしたほうがいいぜ」
アドラの言う『癖』がなんなのかわからず、ユウタはアドラを睨む。
「僕に何の指図を……」
「あー、悪い。あんたは人の話を聞かないんだったな。親切が無駄になるんだったわ。おつかれ」
ふい、とユウタに背を向け、アドラはマルタンたちを見た。真っ黒な瞳を潤ませたマルタンがこっちを見ている。
「マル……」
「アドラ!!」