翌日、バートの勧めでラナコスの村長から地図と古地図を借りると、一行はさっそくそれを見ながら村の南に位置する丘を目指すことにした。
「意外と距離があるんだね」
坂道を登りながら、勇が呟く。旅装束を纏ったフレイアはポニーテールを揺らして村の方を振り向いた。
「確かに……。マギーの家、村の中心部にあったからここまで夜に来るってなかなかだよ……」
一体何時間かけてきたんだろ、とフレイアは苦笑いをする。
「こっぴどく叱られるよねそりゃね」
「子供の足なら尚更かかるよね……」
一行が丘に向かって進みだしたのは、西の空へ太陽が沈みかけている頃だった。そのまま丘を登っていくにつれて、どんどん空は暮れていく。一番星が薄闇に輝き始めたころ、丘のてっぺんへやっと到達した。そこで、一度足を止める。人がいないのを確認して、マルタンは歩きやすさを優先するために元の姿に戻った。
「ここから見ると綺麗だね」
マルタンは、村を見下ろす。灯りのつきはじめた家々の窓が、きらきらと輝いて見えた。そこに生活があるという温かみが、胸をふわりと染める。
「ほんとだ。……村のみんなのためにも、もしアロガンツィアが好き勝手やってるならなんとかしなきゃだね」
フレイアが眉間にしわを寄せると、そこに青い蝶がひらりと止まった。蝶の姿のまま、メリアは言う。
「せっかくの可愛らしいお顔が台無しよ」
「あは、かわいいとか。照れるし」
眉間から離れた蝶は、丘の芝生の上にふわりと降り立った。そして、あたりを見回す。
「それらしい花は無いわね」
やっぱり村の内部にはもう自生していないんだね、という勇に、マルタンは頷く。
「今日は満月だから、生えているならもうぼんやり光っていてもおかしくないよね」
きょろきょろとあたりを見回すフレイア。ブルーグレーだった空の色は、深みを増してきており、そこにぽっかりと浮かんだ月の光は少しずつ強くなってきていた。
「古地図によると、この丘はもともと南側の地域と地続きだった……なら、植生もそこは似た感じになってるはず」
マルタンは言いながら地図を見比べる。
現在はラナコス村の域内になっているこの丘は、古地図においてはどこの領域にも属さない自然区域になっていた。現在も残る、その南の自然区域。そこならば。一行はゆっくりと丘を下り始める。
生い茂る森、その中にルナカモミラを見つけるのは容易なことではなかった。
それでも、その花が月光を受けて光るということが唯一の救いになると信じ、一行は進む。
丘の中腹あたりで、フレイアが小さく声を上げた。
「何か見えるの?」
マルタンは相変わらず目が悪いせいで、よくわかっていないようだった。勇も目を凝らすが……。
「合ってるかはわからないけど、あの木が生い茂ってるとこ……隙間がちょっと光ってる気がする」
丘の下、森になっているところをフレイアが指さす。メリアは元の姿に戻ると、少し高く飛んで、その場所を別の角度から見られるよう旋回した。そして、戻ると感心したように言う。
「よく見つけたわね、たしかにうすぼんやりとだけど光ってるわ」
「やった、行ってみよ!」
自然と丘を下る足取りは軽くなる。
少し高い位置からメリアが先導する形で、一行は明かりの元へと辿りついた。
「すごい、ほんとに光ってる」
ルナカモミラは、木々の合間で淡い光を放って咲いていた。群生、というには少ない気はしたが、ここが自生地とみて間違いないだろう。
「どのくらいあれば足りるんだろ……」
「あんまり摘んじゃうとお花がなくなっちゃうよね」
どうしたものか、と悩みながらルナカモミラに手を伸ばした、その時だった。
「何をしている」
木の上から、低く威圧するような声が降ってきた。
気配を感じ取れなかった。一行が驚いて顔を上げる。
その木の枝の上には、メリアと同じくらいの大きさの、カラスアゲハの翅を持つ人が立っていた。
伸ばしかけた手をひっこめ、マルタンはその人を見上げて、そしてぺこ、と頭を下げた。
「こんばんは、わたしはエビルシルキーマウスのマルタンといいます。ルナカモミラのお花を摘みに来ました」
カラスアゲハの翅を持つ黒髪に浅黒い肌の妖精は、眉を顰める。
「ルナカモミラを……?」
そして、マルタンの傍らにいる勇とフレイアの姿を見て、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「……なぜ人間と行動を共にしている?」
「お友達です、こっちはイサミさん、こっちはフレイアさん」
律儀に紹介をすすめるマルタンをメリアは静かに静止して、木の上へと浮上した。
「あなたもドリュアスね。私はここよりも北西の地域から来たドリュアスのメリア。……なんだかあまり歓迎されていないように思うけれど」
「その通りだ。死にたくなければさっさとここから立ち去れ」
カラスアゲハのドリュアスは、黒い球の闇魔法を、メリアの右頬を掠めるように撃った。
下手に動かずにそれを視線だけで追うメリアの肝の据わった様子に感心したのか、メリアのすぐそばへ飛んでくると、つい、と人差し指でメリアの顎をすくいあげてその瞳をのぞき込んだ。カラスアゲハの赤い瞳に、メリアの青い瞳が映りこむ。
「なるほど、この目の色はフォス・ドリュアスだな」
「久々に聞いたわ、その呼び名。あなたは『ニフタ』ね」
ドリュアスにも人種のようなものがある。メリアのように青い瞳に白い肌、モルフォの翅を持つ者はフォス、カラスアゲハの翅をもつ赤い瞳に浅黒い肌のドリュアスは、ニフタというらしい。二人のやり取りを不安げに見つめながら、マルタンはひげを風にそよがせていた。勇の持っているランタンの灯も、揺れる。
「お前はニフタが人を嫌うのを知らないのか」
「ごめんあそばせ、存じ上げなかったわ」
「そうか、ならば今知ってよかったな。疾く去れ」
ニフタの娘は、メリアと同じく長い髪を後頭部で一つに結い上げると言葉を続けた。
「ルナカモミラはやらん。欲しいなら力づくで持っていくんだな」
えっ、とマルタンは声を上げる。
「あの、このお花がニフタさんのものならば無理に持っていくわけにはいかないです、でも、どうしてもわたしたちには必要で……少し分けていただくか、他に生息している場所を教えてはいただけませんか」
「断る」
しゅん、とマルタンは耳を折る。
フレイアがニフタの娘に問うた。
「魔力酔いに効く薬を作るのに必要なんだ、なんとかならない?」
「……魔力酔い、だと? 一体誰が使うんだ」
そして、何故それを知っている? と、やはり不機嫌そうに顔を引きつらせる。
「俺です、わけあって、魔力酔いの体質なんです」
勇が正直に名乗り出る。ニフタの娘は勇を睨み、言った。
「……人間風情が魔法を使おうとするからだ。そのまま魔力におぼれて滅んでしまえ」
そして、ニフタの娘は手のひらの上で小さな光の球体を作るとそれを花火のように打ち上げる。パン、と軽い音を立てて、魔法の球は周囲に光を撒き散らした。ざわざわと森がざわめき始める。
「……何……?」
フレイアは手にしていたハンマーを構えるまではしなかったが、姿勢を低くしてあたりの様子を伺う。と、彼女の足をひやりとした感触が伝う。感触の正体が何か、視線を落とすとそこには……。
「なに!? なにこれ!」
左足に絡みついた木の蔓のようなものを引きはがそうと、足を持ち上げる。地に引きずり込むような力で逆方向にかかる力に、フレイアは呻いた。
「セリスィ、侵入者はその四体か?」
カラスアゲハの娘の隣に、同じ翅をもつ男が現われた。セリスィ、と呼ばれた娘は頷く。
「警告はしたんだが、去る気はないらしい」
「我らも穏便になったほうだというのに、残念だ」
マルタンはフレイアに駆け寄り、その足に絡みついた蔓を引っ張る。どれだけ強く引っ張っても、ひっかいてもびくともしない蔓を解くよう、マルタンは頭上にいた男に頼んだ。
「交渉の余地なしとセリスィが判断したんだ、我らはそれに従うだけ。悪く思うな」
男が指先をマルタンへと向ける。そこから、まっすぐに光線がマルタンの身体目掛けて放たれる。
このまま避けてしまっては、フレイアに当たる。マルタンはぐっと歯を食いしばり、その攻撃を受け止めようとそこに立った。
「マルタン!」
勇が転がり込むようにマルタンの前へ躍り出る。そして、その右手を光線へと翳した。
「何を……!?」
男は勇の手のひらに光線が吸い込まれるのを見て、息を飲む。
「アレス、下がれ。私がやる」
気づけば、セリスィの後ろには無数のカラスと10のニフタ・ドリュアスが集まっていた。
「気をつけろ、あの男、魔法を吸収した」
「は? ……どういうことだ」
マルタンが声を張り上げる。
「あの、この人はこうやって敵意のある魔法を吸い込んだり、魔力の残滓で汚染された地の浄化によって魔力酔いをしちゃうんです、それで……!」
「くどい! 何を言われようが我らの森に侵入し花を摘みとることは許さない!」
セリスィの怒声に呼応するように、その背後にいたニフタ・ドリュアデスが一斉に襲い掛かってくる。あるものは凍てつく闇の雨を、あるものは黒い影の矢を、あるものはセリスィと同じように黒い球体の闇魔法を。
――それぞれが、マルタンたちに向けて殺意を放った。