「お、やってる」
ソフィアに貰った街の観光案内地図を広げて進んだ先に、石造りの小さな店があった。窓から中をちらと覗くと、文房具やアクセサリーが並んでいるのが見える。奥では、眼鏡をかけた猫の獣人がカウンターで新聞を読んでいた。
「ごめんくださあい」
マルタンの、のほほんとした声がドアベルと一緒に響く。獣人は顔を上げると新聞を折り畳んで、「いらっしゃい」と笑った。その声はしわがれていて、おじいさんなのだということがわかった。
「ここらじゃ見かけない顔だね、観光かい?」
「昨日図書館にお邪魔してきました。今日は、こっちのベビモ先輩のレターセットを探してて」
カウンターから出てきたおじいさんは、ほぉ~、と言いながら棚を探してくれる。
「そうしたら、これなんか良いんじゃないか、少し厚手だからベヒーモス君の筆圧でも破けにくいよ」
「爺ちゃん、なんで俺がよくノートを破っちまうってわかったんだ……!?」
猫のおじいさんは「にゃっはっは」と笑って自分のひげをちょちょいといじった。
「わしもいろんな客を見てきているし、図書館でいろんな種族のことを読んだからねえ」
力自慢のベヒーモスくん、と言っておじいさんはふんふんと鼻を鳴らす。
「お嬢さんは強い翼を持つハルピュイアさんだね」
「ああ。ここの警備隊にもハルピュイアは多いのか?」
「そうだね、空の部隊はハルピュイアと、あとは夜はヴァンパイアの部隊もパトロールしているよ。サキュバスとか」
夜に警備する部隊の種族は、勇がゲーム内で聞いたことのあるものばかりだった。なるほど、彼らも人を襲うのではなく、あくまでも街を守るために夜空を飛び回っているのか。
「卒業生の就職先に載ってたもんね、エルディーテ警備隊」
マルタンがアドラを見上げる。
「あたしもその辺考えてもいいかもな」
「向いてるんじゃない?」
「で、君は……エビルシルキーマウスくんか! いやぁ~、初めて見たなぁ」
マルタンに鼻を近づける猫のおじいさんに、勇は少しぎょっとする。猫はハムスターの天敵じゃん、などと思っていると。
「マルタンっていいます、そうですね、わたしたちの種族、あんまり里から出ないから……」
「いやぁ、書物とかでしか知らなかったから、新鮮だな。ふわふわだね君は」
おじいさんはマルタンの頭を猫の手で撫でる。肉球のついた柔らかな手は、爪が引っ込めてあったのでちっとも痛くはなかったようで、マルタンは毛並みを褒められてくすぐったそうに首をすくめている。
「へへへ。お母さん譲りのふわふわです! おじいさん、本当に物知りなんですね」
キラキラした目で見つめてくるマルタンをまるで孫を見るような目で見て、おじいさんは照れくさそうに頬を掻く。
「ははは、だてに年を食ってないってわけだ。で……君は人間かい? 珍しいお客人だ」
おじいさんは二又に分かれたしっぽを揺らしながら勇を見つめ、そして目の奥をじっと観察して首を傾げた。
「……君、なんだか不思議な匂いがするねえ」
「わかるんですか?」
勇が身を乗り出すと、おじいさんはまた「にゃはぁ!」と笑う。
「言ってみただけじゃ! はは、なんもわからん。なんか事情があるのかい君」
拍子抜けしてずる、と肩からバッグが落ちそうになる。
「はは、いや、えっと……」
言い淀んでいる勇の横から、ベビモは勧めてもらった丈夫な紙と鉛筆をおじいさんに差し出した。
「これ、いくらだ?」
「二つで銅貨一枚かな」
ベビモがポケットをあさると、そこから出てきたのは米粒大の粒銅七粒だった。
「……」
アドラが絶句する。着の身着のまま逃げてきたわけだからそんなもんと言えばそんなもんだが、さすがにちょっと気の毒になった。
「うーん、あと三粒足りないけど……午後、うちの店の掃除を手伝ってくれるなら負けてあげよう」
「いいのか!?」
「いいとも。君たちなんだかおもしろいからね」
ベビモは何度も店主であるおじいさんにありがとうと言って、大事そうにレターセットと鉛筆を抱えて出ていこうとした。
「あ、おい、ベビモお前伝書生物の出し方わかってんよな!?」
「知ってる! 前に父ちゃんに出したことある!」
この都市はいたるところにテーブルと椅子が設置してあって、気の向いたときに読書をしたり書き物をしたりできるようになっているのがまた好都合だった。ベビモは店の外のテーブルで、手紙を書き始めた。
「で、人間の君、なんか訳ありなのかい、この酔狂な爺さんに身の上話でもせんかね?」
「え……」
アドラは視線で「やめとけば?」と言う。マルタンは少し心配そうに二人の顔を交互に見た。
ここはクラーヴァの膝下だ。悪事を働こうとする者はきっと排除されるだろう。この老猫は、きっとただ好奇心と探究心が強いだけなのだ。そこへ珍しい外からの刺激があったなら、飛びつきたくもなるんだろう。そして、勇はこういうときは乗ったほうがおもしろいことがあると、前世のゲーム体験で知っていた。
「話していいかな?」
マルタンとアドラに確認を取る。
「マルは構わないと思う。結構いろんな人にイサミさんが異世界人って言っちゃってるし」
それで何か困ったこととか、特にないし。
そう続けると、おじいさんはそこに被せるように言った。
「異世界!」
「は、はい……」
「こりゃまたどこから!」
「あの、地球っていう星の、日本から……」
「ニホン!!」
いつぞや、マルタンが大興奮したときと同じ反応だった。
「スシ! スキヤキ! ラメン!」
なぜか彼は食べ物のことばっかりだけど。
「そ、そうです、寿司とすき焼きとラーメンが美味しい、あの日本です」
「にゃーッ! すごい! わし、とんでもない人に会っちゃった!? いやあすごいねえ! して、なんでこのリベルテネスに来たの」
「俺にもわからないんですけど、……でも、来るべくしてきたのかなって」
おじいさんは急にすっと静かになって、なるほどねえ、と頷いた。
「運命ってやつなのかねえ」
そんなドラマチックなもんかね? とアドラが笑う。
勇は、なんとなくこの老猫に悩みを打ち明けたくなってしまった。
本当になんとなくだけれど、死んだ母方の祖父に似ているような気がして。
「俺、異世界からの転移者なのになかなかみんなの役に立ててなくて、それどころか足も引っ張っちゃうこともあって」
「イサミさん? 何言ってるの……?」
少し怒ったようにマルタンは言う。この期に及んでそういうのは無しだよ、と勇の服の裾を引っ張った。
「実際戦闘じゃ力もないし役立たずだなって思うんだよ、俺」
アドラは心苦しそうに眉を寄せた。
「非力なのは否定しないけどよ、でもあんたはあんたなりに頑張って成長してきただろ」
この短期間でよくやってる方だと思うぞ、というアドラに、勇は右手を見つめながら返した。
「やっと手に入れたと思った力は、自分の体力を蝕んで行軍に支障をきたすかもしれないなんて……」
どういうことだい? と首を傾げた老猫に、マルタンは少しだけ打ち明ける。
「イサミさんは魔力を溜めることができても、魔法を使うことができないの」
「なるほどねえ、そういう症例は過去に聞いたことがあるよ。魔法使いの適性が一切ないのに魔力だけは体に満ちてしまってそれを浄化するのが大変だとか、強すぎる魔力に魔法技術が追い付かないっていうのがね」
え、と勇は顔を上げる。
「俺以外にもそんな例あるんだ」
「あるさそりゃあ。魔力を有する者に稀に発症する例だね。魔力の強さにあてられて体調不良になるのさ」
勇が魔法を『吸収する』という話は一切していないが、体に抱えきれない魔力を保持することで体調を崩す例があるということを知れたのは収穫だった。
「うちは薬も扱うからそういうのはちゃんと勉強したよ。でもねえ、薬では一時的に抑えられても、やっぱり放出しないと根本解決にはならんね」
老猫は心配そうに勇の顔をのぞき込む。
「イサミくんといったね、今は調子はどうだい」
「あ、今は大丈夫なんです、わけあって魔力は全部放出した状態なので」
「よかった。……うーん、それじゃあ」
おじいさんは肉球をぺたぺた言わせて店の奥へ行ってしまう。何かを探しに行ったようだ。数分で戻ってくると、その手には青い宝石がついた小ぶりなメイスがあった。
「売っても大丈夫だと判断した相手にしか武器は売らないんだけどね」
これが君の魔力酔いに少しは効き目があるかもしれないよ、と老猫は続けた。
「これは……」
「棍棒として使う物なんだけどね、打撃攻撃に魔力をのせる特殊な武器なのさ」
魔力のないのが使っても当たった相手は蚊が止まったくらいにしか感じない不思議なものなのだ、という。しかし、強大な魔力をのせて振りぬけば……。
「相手は吹っ飛んでいくだろうねえ」
勇は「ひえ」と喉まで出かかって、とめた。
「ねえ、マルタン、これ……」
「良いと思う。イサミさんが必要と思ったなら」
いくらですか、と自然と口から質問が出た。
「銀貨三枚の品だけど、君たち興味深かったからねえ……銀貨二枚と銅貨五枚。どうだい?」
バッグの中から、お金を入れた巾着を取り出す。グラナードが木こり小屋に置いて行っていた後払いの報酬を含めて、銀貨は九枚。メイスを購入しても、何とかこの先の宿代やらは足りそうだった。
「お願いします」
「うん。君の旅路が良いものになりますように」
ふと、新聞の記事が目に入る。
――号外――アロガンツィア王国の勇者、エルディーテ海域より帰還。エルディーテの魔族の攻撃により負傷。
「……それって……」
「ああ、人間向けの新聞だ。遠い親戚がアロガンツィアのほうにいてね、早朝に伝書ハヤブサで届けてもらっているのさ」
そいつは魔族で、人間に化けることができるから、向こうの情報を手に入れ放題ってわけ、と老猫は笑う。さらりとスパイ行為について口にしたことに、勇は驚いている。
「すぐに記事にしたんだねぇ、大ごとにしてるけど、うちの警備隊が先制攻撃なんてするわけないから向こうがどうせなんかしてきたんだろ……」
やんなっちゃうねぇ、と言って、おじいさんはお釣りの銅貨五枚を勇の手に渡した。
「あの」
「ん?」
「実は、俺、その……」
「イサミ」
必要以上に不安になる要素を話す必要はない、とアドラは目配せする。ハッとして口を噤むと、優しい目で勇の言葉の続きを待っている店主に勇はこう告げて店を出た。
「この事件が悪い方に行かないよう、……俺もできることをします」
「おう、お前らも買い物終わったか? 俺も今手紙書き終わったとこだ」
店を出ると、ベビモが上機嫌で手紙を広げて見せてくれた。
便箋の罫線を無視して、豪快な文字で、
『かあちゃん、とうちゃん、ベリーヌへ おれは ぶじだ ベビモ』
とだけ書いてある。
アドラは頭を抱えた。
「せめてこの都市の名前書けば?」
「おお! そうだな! あんがとよ」
鉛筆を握り、デカデカとその下に『エルディーテにて』と追記し、ベビモはテーブルの上にいたウミネコの足にそれを括り付け、「スネイウのベビモ家族まで頼む」と言った。
ウミネコは「ミャア」と一つ鳴くと、青い空へ舞い上がり、北へ向かって飛んでいくのだった。