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第2話

「遠いところをご苦労だったね」

「突然の訪問で申し訳ございません」

「何を水臭いことを。こちらとしてはいつでも歓迎だったが……こんな形での再会になるとはな」

 黄金色の夕暮れが沈み、空が藍色のベールを纏い始めるころ、茶器がぶつかる音が聞こえる。あたたかな湯気と、焼き菓子、そして、中庭には色とりどりの花々。

 真っ白な雪景色の中に、その庭園のみ春が訪れているようだった。

「だいぶ疲れたんじゃないのか、せめて少し甘いものでも食べて落ち着くといい」

 そう言った女の白い指先が、白磁のポットに触れた。

「わたくしは大丈夫ですわ。……皆がゆくのを見届けたつもりではおりますけれど……大丈夫かしら」

 年を重ねた老女の声。その主は、目の下に深くクマを作っている。

「貴殿はあの時できる最善のことをしたと思う。あとは、あの子たちが上手に生き延びれるかどうかだ」

 優しくはあるが冷静に告げた女は、金色のツタ模様が施されたティーカップに艶やかな唇をつけた。

「ここに来ることは?」

「誰にも告げておりません」

 弟にも。そう言った老女の背を撫でて、女は宥めるように言った。

「誰にも告げず来たのは英断だった。ここはまだ味方にも知れない方がいい。貴殿を隠せなくなるからな」

 女は、老女の肩に左手を置くと、静かに右手を空中にかざす。すると、そこに水の波紋が丸く広がった。眼前に作り出した水鏡、そこには、どこかの岩場で休む黒いドラゴンの姿が映る。

「見えるか」

「ああ……! 無事だったのですね」

 よかった、と繰り返し、老女は青い瞳から涙を流す。

「これで今日は少しは眠れそうか?」

「ありがとうございます、けれど……生徒は……」

 女は軽く首を横に振った。

「信じてやるしかないさ。あの子たちの力を」

 それが我々のできること、そして教育者たる貴殿にできる一番大切なことだろう、と女は続ける。

「そうですわね……」

「どうか胸を張っていてくれ、ヒルデガルト。それが貴殿が今、校長としてできる唯一のことだ」

「はい……」

 ヒルデガルト、と呼ばれた老女は、白いドラゴンであった。

 それに向かい合うように座るのは、大きくデコルテが開いたドレスに、様々な魔法石のアクセサリーを身に着けた長身の美女。彼女こそが――。


「魔王様」


 うん、と魔王は微笑み、頷く。

「まずは貴殿が力を十分に蓄えることだ。そうでなければ学校の復興も、あの子らへの支援もできぬであろう」

 残念だが、起きてしまったことは巻き戻せない。と魔王は長いまつ毛を伏せる。

「この我の力をもってしても、時空は不可逆よ」

 皿に並べたクッキーのうち、一つだけ割れてしまっていたものを摘んで頬張る。

「……ええ……そうですわね」

「我らがすべきはこの先の道筋をつくること、路頭に迷う子らがいたならば手を差し伸べること、……未来につながることを地道にやるしかない」

 あの襲撃は事前に予測できたものではないし、大きな結界を張ってあの場所を皆が逃げ切るまで隠し通したことについては胸を張りなさい、と魔王は優しく微笑む。


 傅いた白いドラゴン。

 魔王はそっと屈むと、ドラゴンの右手を取り立たせる。そして、彼女の手を握ると小さく何かを唱えた。すると、蛍のような淡い光がふわふわと周囲を舞い、見る間にドラゴンの姿が人間の老女へと変わる。

「この姿は……」

「人の姿を取らせよう。万一にでもここが嗅ぎつけられた場合、あなたの身に危険が及んではいけないからな」

「まあ……」

 その白い肌には深くしわが刻まれており、白髪は後ろでぴっちりとシニヨンに結わえてある。

「これではおばあさんですわ……」

「はっはっは、おばあさんではないか」

 なにも違えてはおらぬであろう、と魔王は笑う。頭部から突き出た大きなヤギのような角に付いたアクセサリーがしゃらしゃらと揺れた。

「失礼しちゃうんですから」

 茶目っ気を含んだ言い方でヒルデガルトはぷい、とそっぽを向いて、それからすぐに魔王の方を見た。

「ありがとうございます、魔王様。……あの子たちは、きっとわたくしを探していますわ」

「ああ、そうであろうな」

「この姿、この声ならばきっとすぐに気づきますわね」

 その老女はまるで少女のように笑った。魔王は同じように屈託のない笑みを返す。

「どちらへ?」

 背に翼を広げた魔王にヒルデガルトは問うた。魔王は振り返らずに答える。

「我とて子らが心配よ。アロガンツィアの狼藉、このまま放っておくわけにもいかぬ。少しずつな、情報を集めてこようと思う」

「アロガンツィア……この件はあの王国が?」

「ああ、貴殿が来られる前に、我の方でも探りを入れておいたのよ。霧の森からの異常なエネルギー、それを追っていたらあの国が関与しているということはすぐにわかった」

 その身をカラスへと変えると、魔王は朝には帰ると告げて飛び立った。

 ヒルデガルトは、その背を見送ると静かに屋敷の中へ入る。

 ティーセットは自ら意思を持ったように動いてヒルデガルトと共に屋敷に続き、その最後の一つが扉をくぐると、中庭への白い扉は小さく音を立てて閉じられた。


 その夜、ヒルデガルトは久方ぶりにあたたかな寝所で、ゆっくりと体を休めることができたという。


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