いつもと変わらない夜、いつもと変わらない朝。
この里では、魔族防衛学校が襲撃を受けたという事実が嘘のように、穏やかな毎日が繰り返されていた。
「……」
午前中にこなすべき家事を終え、エプロンを外すと、アンヌは窓際のロッキングチェアに座る。小さくため息を一つ。新聞に魔族防衛学校が何者かによって焼き払われたという報があってから、彼女は毎日眠りの浅い夜を過ごしていた。
――コン。
「?」
――コンコン!
窓に何か固いものが当たる音がした。
そちらへゆっくりと視線を向けると、ぎょろりと金の目がこちらを覗いていて、アンヌは驚いてロッキングチェアから滑り落ちてしまった。
がっちりとした猛禽類は本来であればエビルシルキーマウス種の天敵だ。体長30センチ程度の小柄なシロフクロウといえど、本能的に恐怖を覚えてしまう。
アンヌ――マルタンとそっくりな毛色のエビルシルキーマウスは、慌てて立ち上がると、もう一度窓の外の訪問者、シロフクロウを見る。バサバサ、と翼を動かし、左足をトントン、と踏み鳴らして何かを伝えようとしているようだった。
「あらあら、ごめんなさいね」
よく見れば、シロフクロウの足には巻物のようなものが結んであった。
窓を開けると、シロフクロウがひとつ「ぴゅい」と鳴く。
「お手紙を持ってきてくれたのね、ありがとう」
そっと足に結ばれた筒を取ると、アンヌはちょっと待っててね、と言って台所へ向かい、ナッツの小瓶を持って戻る。
「少ないけど、おやつにしてね」
「ぴい」
お礼に、と渡したローストナッツを嬉しそうにつつくと、シロフクロウは会釈をするような動きをして飛び立っていった。
伝書生物は前払いでその生き物が好きな食べ物などを渡すと、目的地まで任意のものを運んでくれる。運搬が終わった後に渡すものは、あくまでもチップだが、これがあると伝書生物はそのやり取りをした人たちをよく覚え、また力になってくれることが多いという。
アンヌは巻物を開くと、見慣れた懐かしい文字に安堵のため息を漏らした。
――里のみんなへ
連絡が遅くなってしまってごめんなさい。マルは、元気にしています。
学校が一晩で焼け落ちてしまったということは、魔族の新聞にも載ったでしょうか。
あれから、みんなは変わりないでしょうか。
今、マルは人間の討伐者であるイサミさんと、1学年先輩のアドラと旅をしています。
レジスタンスという職は何をするのか、どんな役割があるのか、わからずに学んでいましたが、さるお方がきっともうすぐわかると言ってくれました。
学校を焼き払ったのは、人間の勇者の一行でした。
そのリーダーに話を聞いたところ、アロガンツィア王国の王様の命で魔族を根絶やしにせねばならないとのこと。
こちらに害意はないと伝えればわかってもらえるかと思いましたが、だめでした。
魔族を同じ生き物と思わず、非情な手口でわたしたちを害そうとしていることがわかりました。
みんなのことが心配です。
どうか、用心して過ごしてください。
「マルは、心強い仲間がいるから大丈夫……、何をすべきか、しっかりと考え、お父さんやお母さんがいつも言っていた『誰かにそっと寄り添って支えになれるような者』に、なれるかな。なれるといいのだけど。――マルタン」
手紙を読み終えると、マルタンとそっくりの顔のエビルシルキーマウスは瞳に少し涙を浮かべて笑った。
「お母さん、何読んでるの?」
「マルタンから手紙が来たの」
マルタンより一回り小さなエビルシルキーマウスの男の子と女の子が、マルタンの母親に駆け寄る。
「マルから!? マル元気なの!?」
「ええ、お父さんも呼んできて」
こどもたちが奥の書斎へ走っていくと、アンヌよりも少し小柄なエビルシルキーマウスが走ってくる。
「マルタンから手紙が!?」
「ええ、見て、あの子の字です」
アンヌが持っている手紙をのぞき込むと、その夫――ドミニクは鼻をふすふすさせて手紙の匂いを嗅いだ。
「うん、少しあの子の匂いが残っているね」
「ふふ、ドミニクさんったら」
子供部屋から、他の弟、妹たちも出てきてアンヌの足元をぴょんぴょんしている。
「ねえ、お母さん! なんて書いてるの?」
「マルたん、元気にしてる!?」
「ぼくもぼくも!」
まだ文字が読めない、マルタンの小さな弟、妹たちに、アンヌはマルタンが無事であることと、お友達と旅をしているのだということを教えてやった。改めて手紙に目を通しながら、ドミニクは小さく唸る。
「なあ、アンヌさん」
「なあに?」
「この、一緒に旅をしているのが『討伐者』というのは……どういうことなんだろう……」
アンヌもその一文は気になっていたようで、腕を組んで少しの間考えた。そして、ぱっと顔を上げる。
「わかんない」
「そうだよねえ」
「でもね、あの子のことだもの大丈夫だと思うの」
何の確証もないけれどね、とアンヌは言う。
討伐者とは、魔物を討伐する人間の職だと知っていた。その職に適合したものと旅をしているということは、ただ事ではない。けれど、母であるアンヌにはわかっていた。
「きっとあの子は、そんな相手とも仲良くなってしまうような何かがあるのね」
「まあ、落ち着いて手紙なんて書いているようだし……そうか」
エビルシルキーマウス種は、窮地に陥ると独特のにおいを臭腺から発する。手紙には、そのにおいは一切ついていなかった。文字も、リラックスしたマルタンの筆跡であることが読み取れたので、誰かに無理に書かされたものでもなさそうだ。そう判断し、ドミニクは笑った。
「本当ならば返事を書いてあげたいところだけど、どこにいるかは書いていないわね」
「そうだね。明かせない事情があるんだろうか……」
「旅の途中だから返信しても届かないと思っているんじゃないかしら」
「ああ……確かに」
さ、無事であることが分かったのだから今日はごちそうにしましょう、とアンヌは立ち上がった。
里の者たちにも、マルタンが無事であることを伝える。
エビルシルキーマウスの里は、群れとしての団結力がとても強い。
同胞の無事を喜んだ者たちはマルタンの生家に集まり、ささやかな祝いの席を過ごす。
テーブルに並んだミックスナッツのサラダ、チキンパテを塗ったトースト、クルミのケーキ。それらは、どれもマルタンの好物だ。
「みんな待っているからね、マルタン」
どうか、無事で帰っていらっしゃい。
アンヌは思いを込めて、次に焼きあがるケーキがオーブンの中で膨れるのを見つめた。