ソフィアに案内されて丘を進むと、マルタンたちはエルディーテ図書館に到着した。後方で鳴っていた鐘の音が警報ということを知り、少し不安な気持ちは捨てきれなかったマルタンたちとは違って、ソフィアは涼しい顔でここまで雑談をしながら歩いてきた。図書館の前には、衛兵に相当するような者もいない。ここの警護が手薄なのはいいのだろうか、と勇はソフィアの顔を見遣る。
「どうしました?」
「いえ、ここは都市の中枢にも該当する場所だと思うけど、特に門番さんとかはいないんですか?」
「ああ……必要ない、ですからね」
そういえば考えたこともなかった、とソフィアは笑う。アドラは少し呆れたように勇に言った。
「イサミ、この都市の警備班は多分あたしたちの想定を超えるレベルだと思うぞ。ソフィアさんのケルヴィムさんへの信頼もエグい。強さはもちろんのこと、統率が取れてるのもデカい」
どんだけ強い奴を束にしたって、そいつらが全員違う方向を向いていたら強い軍にはなりえないだろ、と続け、ソフィアの方を向いた。ソフィアはアドラと顔を見合わせるとにっこり笑う。
「ああ~、『
きょとんとした顔で勇がマルタンの方を見る。
「個々が強い者が集った組織でも、仲が悪かったり連携が取れないと自滅しちゃうよねっていう意味のことわざだよ」
「なるほど、こっちでは『船頭多くして船山に登る』っていうやつだ」
ソフィアは勇の言葉に興味を示す。
「イサミさんの世界ではそういう風に言うんですね、確かに船頭が何人も居ちゃてんでんばらばらカオスなことになりそう」
面白い言葉があるんですね~とはしゃいでいるソフィアに、多頭竜が登場することわざもなかなかぶっとんでますよとは言えない勇だった。
ソフィアは、図書館の重厚な白い扉を押して開ける。
「どうぞ~」
「お邪魔しまあす」
マルタンは、グロセイアの元を訪ねた時と同じようなテンションで、図書館に足を踏み入れた。のほほんとした声が、図書館のホールの高い天井に反響する。
「ようこそエルディーテ図書館へ」
木製の本棚で壁一面が覆われた空間、その中央にはレファレンスカウンター。そこにいた男性がマルタンたちの来訪に気づき、顔を上げた。
「はじめまして、マルタンと申します」
マルタンは礼儀正しくお辞儀をすると、勇とアドラを紹介し、今回ここにきた理由を簡潔に話した。すると、男は笑顔で入館証を差し出してくれる。
「こちらの名簿にサインをいただき、入館証をお持ちのうえ、奥へどうぞ」
「ありがとうございます!」
「ごゆっくり」
ソフィアはこのままロビーに残るというので、マルタンたちはレファレンスカウンターの後ろにある書庫へ向かう。話によると、書庫を更に進んだ奥に館長の執務室があるのだそうだ。
「本の匂いだ」
当たり前のことを言いながら、マルタンは鼻をふんふんと鳴らす。
「図書館ってこの匂いがいいよね、なんか落ち着く」
「イサミさんもそう思う? マルもこの匂い結構好き。古い紙とほんのちょっとかび臭い感じ……」
アドラは、えー……、と鼻にしわを寄せる。
「苦手?」
「うーん、ほこりっぽいのは。でもここはそうでもないかな」
広い書架には、学生や研究者と思しき者たちがたくさんいた。
彼らの邪魔をしないよう、小声で勇たちは会話を続ける。
「いろんな人たちがいるね」
下半身が蛇の姿の女や、背中に大きな翼を持つ、おそらくハルピュイアの男、もふもふとした二足歩行の猫、着流しを纏った狐、そして、勇と寸分違わないような人間の姿の人々……。まあ、この世界の魔族は変化することが可能なので、その人間に見える者たちも本当に人間かどうかは知る由もないが。
「獣人や亜人らは変化の術は持たないから見たまんまだけど、人間の姿のはどっちわからんな」
それでも、今こうして勇が歩いていても誰一人として気にすることなく自分の読書、調べものに集中しているあたり、学術都市エルディーテは聞いた通り種族間の隔たりがない開かれた都市だということがわかった。
「みんなこうだったらいいのにね……」
マルタンはすん、と鼻を鳴らして、書架の間を見る。
「あ」
そこには、執務室と書かれた簡素な札がかかった木製のドアがあった。
「もしかして、ここ……?」
「執務室ってことはそうじゃないかな」
恐る恐る扉に近づくと、マルタンはドアを三回ノックする。
「開いていますよ、お入りください」
ドア越しに聞こえたのは、涼やかな女性の声。
そっと扉を押し開くと、奥のデスクからその女性が立ち上がり、応接セットの前まで歩み出てくるところだった。マルタンはドアをくぐってすぐにお辞儀を一つ。
「失礼します、マルタンと申します」
続いて、勇とアドラも頭を下げて名乗る。女性は穏やかな表情を変えずに頷くと静かに答えた。
「ようこそおいでくださいました。わたくしがこのエルディーテ図書館の館長にしてエルディーテの長、クラーヴァです」
白のタイトスカートに、黒いドレスシャツが映える。クラーヴァは、高いヒールの足音を一切させずにマルタンたちに近づいた。
「……あなた方は、わたくしの正体を知っておいでですね?」
こちらがものを言う前に、クラーヴァはすべてを見通しているとばかりに琥珀色の澄んだ瞳を向けてきた。
「はい、南の柱であるデロニクス様より、西のエルディーテはクラーヴァ様が守護していらっしゃると伺いました」
マルタンがそう答えると、クラーヴァは「なるほどデロニクスが」と何やら納得したように頷き、そしてすぐに踵を返す。柔らかく波打つ白髪がふわりと揺れた。
「応接セットは必要なさそうですね。こちらへ」
そして、デスクの方へまわると引き出しに付いた金の鍵を回した。すると、引き出しではないところからガコンとひとつ音がする。その音を白い虎の耳で確認したクラーヴァは、革張りのハイバックチェアの後ろで黒いヒールの踵をカツカツとふたつ鳴らした。
「あ……!」
そうすると、次はチェアの後ろにあった本棚にある本の背表紙が、ぼんやりと光を帯びる。その本を、クラーヴァは右手の中指にはめた指輪の石でぐっと押した。ず、と音がして、本棚全体が奥へ一つ下がり、そしてスライドしていく。
「わあ……」
マルタンは大掛かりな仕掛けに目をきらきらさせて見つめている。
その秘密の本棚の奥には、更に書架が並び、その真ん中には簡素な閲覧用テーブルが一つだけ配置されていた。
「どうぞ、お入りください。特別に閉架書庫へご案内しましょう」
クラーヴァは一度マルタンたちの方を向くと、すぐに太い尾を揺らしながら書庫へと入っていった。