「なんだ、この女……! なんでこんなに……!」
船の上で、ユウタはがくりと膝をついた。
それは、数十分前に遡る。
マルタンたちの足取りを追っていたユウタ一行は、船でエルディーテの海域へと侵入した。マルタンが乗っている船からケルヴィムが飛び立ったのは、それを出迎えるためであった。バハルが操舵していた船を見つけた時と同じく、旋回しながらユウタの船に声をかける。
「こんにちは~、ご旅行ですか~?」
頭上から来る間延びした声にユウタは顔を上げた。
「魔族か……?」
「あの~? わたくし、ご旅行かと伺ったのですが? お話が通じない?」
船を動かしていたネージュが代わりに答える。
「はい、エルディーテに向かっております」
「おい、ネージュ、どうして魔族相手に普通に会話なんて……」
声を潜めてネージュは言った。
「こちらが下手に出ることでエルディーテへ入れるのならばそれに越したことはないのでは?」
ユウタはネージュの正論に押し黙る。しかし、その眉間には深くしわが刻まれ、不服そうに口元は歪んでいた。
「ふむふむなるほど~、この海域は既にエルディーテ海域となりまして、このまま直進しますとエルディーテに着きます、が」
ケルヴィムは船の上にいる兵士たちに目をやった。
「ちょっとみなさん物騒すぎますねぇ……どういったご用件で?」
ユウタの船上にはネージュとアロガンツィア籍の兵士が四人。フレイアの姿はなかった。ソレイユとフレイアが抜けた分を補うようにそこにいた兵士たちは、剣を持った物理特化の者が二人、杖を持った魔法特化の者が二人。ケルヴィムが物騒と称したのはその兵士四人についてだろう。
「エルディーテの蔵書に興味がありまして、図書館にお邪魔したいと思いまして」
ネージュはしれっと嘯く。用があるのは、その図書館にいるであろう『柱』と、それに接触しようとしているマルタンたちだ。なぜそこに柱がいると知ったのか……。
「我がエルディーテの蔵書数はリベルテネス一ですからね~、そういうことなら……」
けれど……とケルヴィムは兵士たちへ視線を移す。
「その武器、すべて捨てていただけますか? 殺気が強すぎます」
ケルヴィムは、白鳥の翼をはためかせる。神々しいまでの白い翼、逆光にきらめく白銀の髪は絵画の天使を思わせるが、その実態はハルピュイア。足は歩きやすいよう人間のものに術で変えてはいるが、にじみ出る強い魔力については隠そうとしていない。マルタンたちの時と同じく、見えない圧をユウタの船全体にかけ続けていた。
「武器を捨てろだと? 僕たちの身の安全は誰が保障する」
「その武器の持ち方、明らかに護身目的ではありませんもの……。こちらへの害意が無いと証明できない限りはこの先へは通せません」
口調こそ穏やかだが、その笑顔の瞳は笑っていなかった。
ネージュは瞬時に悟る。あまり怒らせるとまずい。
「ユウタさん……」
進言しようとしたのを遮るようにユウタは命じた。
「生意気な女だ。良い、そのまま突っ切れ!」
船の動力はネージュが握っている。だが、操舵しているのは魔法特化の兵だ。彼は王国の所属兵であるから、勇者であるユウタの命令には逆らわない。船のエンジンに魔力を流し込んでいるネージュに、男は目配せをした。船の速度をあげろ、という指示だ。このままいくのは得策でないことは、ネージュにはわかっていた。
(ユウタさんはどうしてこのままいけると思っているのかしら……)
魔力が足りないふりをして首をゆるく横に振り、弱弱しく息を吐いて見せる。その様子に、攻撃特化の兵がネージュへと駆け寄った。
「大丈夫でありますか」
「ええ、でも速度は出せませんわ。引き返した方が……」
怒声が響く。
「引き返せるものか、このまま速度を上げろ! 船に魔力を流し込め、お前もできるだろう!」
魔法兵の二人にユウタはそう命じる。この船において、勇者の命令は絶対だ。二人はユウタの要求通り、船のエンジンに魔法エネルギーを注ぐ。ネージュほどの力はないが、元のエネルギーに加えて魔力が注がれたおかげで、わずかに船は速度を上げた。
「……お話が通じないようですね」
ケルヴィムは周囲に風を起こす。
ユウタの船が、波にぐらりと揺れた。
「うわっ……貴様の力か!?」
「貴様だなんて……怖いです~」
ケルヴィムは笑顔を崩さないまま、ユウタの動きを見ている。その剣の柄に手をかけた瞬間、ケルヴィムも自分の腕にはめていたブレスレットから光の剣を抜いた。
「交戦の意思、ありですね?」
先刻まで青く凪いでいた瞳が刃物のようにぎらりと光る。ネージュが息を飲んだ。
「ユウタさん」
退きましょう、と言おうとするネージュを押しのけるようにしてユウタは前に出る。力量の差がわからないのか、とネージュは眉を寄せた。ケルヴィムは、それに気づいたようで、ネージュの方を優しく見遣り、笑う。
剣を抜いたユウタが、物理特化の兵に命を下した。
「撃て!」
兵は弓をつがえてケルヴィムを狙う。ケルヴィムは不規則に動き、狙いが定まらぬように船に接近した。
「速い……!」
「ユウタ殿、無理です! とらえられません」
「くそ、無能が!」
部下であり仲間である兵に暴言を吐くユウタに、ケルヴィムは目を丸くする。
「あらあら、そんな言い方をしてはおかわいそう。彼が無能なのではなく……」
――わたくしが有能なのですわ。
小さくそう言ったケルヴィムは、兵が構えている弓を光の剣で二つとも弾き飛ばす。
「!」
その様子を見ていた魔法兵が、慌てて魔法弾を撃った。闇の属性を持つこぶし大の黒いエネルギー体が、ケルヴィムに迫った。対象を追尾する魔法と瞬時に見切ったケルヴィムは、船に降り立つと転げるようにして一度それを躱し、自分の身体にぎりぎりまで引き付けるとそれを真っ白なブーツで踏みつける。ぷすん、と煙を上げてあっけなく消えた魔法弾に、くすりと小さく笑みをこぼし、ユウタへ視線を移した。
「さて、お次は何をくださるの?」
挑発を含んだ優雅な口調に、ユウタはすっかり激昂して、ネージュが止めるのも聞かずに剣を手に突っ込んでいく。実態を持たない光の剣が、ユウタの鋼の剣を受けてキン、と高い音を上げた。成人男性の全体重を乗せるようにして押し込まれる刃を受けても、ケルヴィムの剣は全く沈まない。その細腕がどのようにしてこれを支えているのか全く分からないほどだ。
(敵う相手じゃない……!)
ネージュは背筋に嫌な汗が伝うのを感じた。
「鐘の音……」
「あの音階は警報です。敵が接近していることを知らせるメロディですね。姉が援軍を要請したんでしょう」
海辺に響いた独特なメロディに耳をぴんと立てたマルタンは、ソフィアの答えに心配そうに海へ視線をやった。
「ご心配なく。姉は警備隊の中でもかなり強い方に分類されますし、この鐘の音が響けばすぐに増援が姉の元へ行きます」
何も恐れることはありませんよ、と笑うソフィアは、本当に微塵も心配をしている様子はなかった。
「そうだ、帰っていくバハルさんたちは大丈夫かな……」
同じルートを通って帰るのなら、騒動の現場に鉢合わせてしまうかも。勇の不安に、ソフィアはなだめるように答える。
「そちらも、おそらく増援の者がフォローしてくれると思います。こういう場合、他の船の航行に支障が無いよう手助けするように言われていますから」
「すげえな、そういうのも全部想定して訓練してるのか」
アドラが感心すると、ソフィアは嬉しそうに頷く。
「ええ、我がエルディーテは、守りも鉄壁です。ここにいる間はどうか安心してお過ごしください」
何度も何度も鋼の剣を弾かれたユウタは、それでも果敢にケルヴィムに挑んだ。そこだけを見れば、勇敢な勇者であったかもしれない。しかし、その姿は一部始終を見ているネージュからすればただの無謀な愚者に過ぎなかった。力量の差がありすぎること、そして何より、ケルヴィムは手加減をしているということ……。その顔には微笑みさえ湛えていた。
「なんだ、この女……! なんでこんなに……!」
「まだやるんですかあ? 息、上がっちゃってますけど……」
肩で息をしているユウタに、ケルヴィムは歌うように囁く。それがまた彼の怒りを煽った。青筋を立ててまた剣を振り上げようとしたユウタの、次は喉元に光の剣を当てて嗤う。
「良いんですか? これ以上はもう無駄だと思いますけど」
つ、と首の皮が一枚切れる感覚にユウタは仰け反る。その時に、やっと気づいた。空に、ケルヴィムと同じように背に翼を持つ者たちが集っていたことを――。
ネージュはその場に膝と手をつき、流れるようなしぐさで頭を垂れた。
「無礼を働き、申し訳ございませんでした。武器を収め撤退しますので、お許しください」
「ネージュ!?」
自分の後方で土下座しているネージュに驚きと怒りを込めた声を上げる。ネージュはそれでも頭を上げなかった。
「そちらのお方は冷静なようですけれど……さて、剣を……どうなさいますか~?」
ひとつ、歩みを進めて光の剣の先、面でユウタの顎をすくいあげる。ケルヴィムの背後に控える有翼の武人たちも、光る弓をつがえてユウタを睨んでいた。
もはやこれまで、さすがのユウタも観念したようだ。かしゃん、と音を立て、鋼の剣を落とした。
「わかった。僕の負けだ。降参する」
フェイントでそれを拾い上げて攻撃してこないように、ケルヴィムは鋼の剣を蹴り上げ、拾う。
「これ、普通の剣ですよねぇ、没収しちゃって大丈夫ですか? 誰かの形見とか思い出の品とかじゃないです?」
「ああ、ただの武具だ。持っていくなら持っていけ」
「はあい、それじゃ物騒なので没収で」
おねがいしまあす、と上空に声をかけると、増援部隊の男がふわっとケルヴィムの横に舞い降りた。
「ケルヴィム殿、俺たちを呼ばなくてもよかったのでは?」
「……まあ、ひとりでもなんとかなったかもですけど~……」
この方、女一人にやられるのが嫌だったみたいで……と困ったように笑う。
「このままじゃ殺してしまいそうでしたから」